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第72話 潜航開始 ー 四つの影

《しおなぎ》が海面に降ろされると、

外殻を叩く波の音が柔らかく響いた。

海面はまだ陽光を反射し、白い光の粒が艇の外殻を滑るように流れていく。


高科が潜航スイッチを入れる。

艇はゆっくりと沈み始め、窓の外で光の帯が離れ、海面の揺らぎが遠ざかっていった。


水深十メートル。

太陽の光がまだ強く、

海は淡い青に満ちている。

小魚の群れが光の筋を横切り、

銀色の鱗が一瞬だけ輝いた。

その動きはまるで、海が最後に見せる“生のきらめき”のようだった。


「……きれいですね」


高木が息を呑む。


誠は静かに頷いた。


「浅い海は、光があるからな。海は“照らされているうち”が一番賑やかだ」


水深五十。

青が濃くなる。

海面の揺らぎはもう見えず、光は斜めに差し込む細い帯だけになった。


水深百。

魚影が減り、海藻も消える。

窓の外は静かで、ただ青の濃淡だけが揺れていた。


水深二百。

光が薄れ、青は深い紺へと変わる。


高木が小さくつぶやく。


「……さっきまで、あんなに明るかったのに」


「海は、深くなるほど“色”が消える。光が届かなくなるからだ」


水深三百。

外はもう青ではなく、暗い影の世界だった。

窓の外に漂う微細な粒子が、光を奪われた世界でゆっくりと沈んでいく。


誠は目を閉じ、深海の“線”を探る。


(……揺れがある。遠くで、何かが動いている)


だが、それはまだ弱い。

深海の静けさに紛れるほどの微かな揺れだった。


水深五百。

光が完全に消えた。


高科が言う。


「ここから先は、外部カメラはほぼ役に立たない。深海は“見えない世界”だと思ってくれ」


誠は頷く。


(……見えないからこそ、“線”を読むことが必要なんだ)


水深千。

外殻が軋むような音を立て、高木が肩を震わせた。


「……これ、圧力の音ですか?」


「大丈夫だ。《しおなぎ》はこのくらいの深さは余裕だ」


誠は揺れを追い続けた。


(……揺れが強くなってきた。何かが……近づいている?)


だが、まだ漠然としたことしかわからない。



少し前、南鳥島沖の外縁。

“環境調査船”を名乗る白い船体ノルデンが静かな海に溶け込むように停泊していた。

海面は穏やかで、船体の影がゆっくりと揺れている。


作戦室。

大型スクリーンには海底地形と潜航ルートが重ねて表示され、複数の端末が低い電子音を立てていた。


「日本側、有人潜水艇を投入。深海へ向けて潜航中です」


通信士の報告に、技術員が眉をひそめる。


「……有人艇? 採取作業に、なぜわざわざ人間を?」


ハンス・グレーバーは海図を見たまま言った。


「そこだ。日本側は“無人で十分な作業”に、あえて人間を入れた」


「深海六千での有人潜航は……通常ありえません。危険すぎます」


「だからこそ、だ。日本側は“何かを隠している”。そして――“有人艇が沈めば、作業は完全に止まる”」


技術員が息を呑む。


「……つまり、狙うなら今が最適……?」


「そういうことだ」


ハンスは淡々と続けた。

「深海での事故は誰にも証明できない。

“潜航中に姿勢を失った”、“海底に衝突した”、理由はいくらでもある」


通信士が端末を操作する。


「妨害ユニット《S-05〜S-08》、起動しますか?」


ハンスは短く頷いた。


「四機すべて出す。二機は海底へ先回りさせろ。残り二機は日本側の後方上層を追尾する」


深海では回避行動が極端に制限される。

“位置を取った側”が勝つ――ハンスは淡々と告げた。



水深二千。

《しおなぎ》は光の届かない世界へと沈んでいく。

外殻を叩く水圧の軋みが船内に低く響いた。


由理はシートベルトを握りしめ、呼吸を整えようとしていた。


(……怖い。どんどん落ちていく。……あとどれくらい続くの)


誠は“線”に意識を沈める。


(……揺れが増えてきた。でも、まだ遠い)


高木が端末を見ながら言う。


「誠さん……何か感じますか?」


「……遠くで、何かが動いてる。でも、まだ“こちらに来てる”かどうかはわからない」


揺れは弱い。

方向も曖昧だ。

ただ――“数”が一つではないような、そんな気配だけがあった。


高木が端末を確認する。


「センサーには何も……」


「わかってる。まだ遠い。でも……“動き始めた”感じがする」


誠は目を閉じた。


(……これは偶然じゃない。何かが……こちらに合わせて動いている)


深海の闇の奥で四つの影が近づいていた。



お読みいただきありがとうございました。

いよいよ最終章に入りました。

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よろしくお願いします。


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