第71話 決裁 ー 潜航の決定
会議室の空気は張り詰めていた。
スピーカーから官邸の担当者の声が流れる。
『……お待たせしました。
深海潜航について、官房長官の決裁が下りました』
高木が息を呑む。
誠は無意識に拳を握った。
『潜航を――許可します』
室内に、静かな安堵の息が広がった。
榊原室長が短く答える。
「ありがとうございます。
ただちに準備に入ります」
通信が切れた。
三枝主任が誠たちを見渡す。
「……決まった。
《しおなぎ》は本日中に出せる。
南雲さん、高木さん、――準備を。
高科君、よろしく頼む」
誠は深く息を吸った。
(行くしかない)
◆
ブリーフィングルーム。
三枝主任、榊原室長、白石医師、そして乗員3名が揃った。
榊原が資料を開く。
「まず、潜航中の護衛について説明する。
昨日の外力――おそらくAUVによる接触だが、所属も目的も特定できていない。
深海では“何かがいた”以上の情報は得られない」
高科が頷く。
「深海ではソナーも限定的です。
AUVの種類や数を識別するのは難しい」
榊原は続けた。
「そこで、防衛省として潜水艦の派遣を検討した」
誠と高木が顔を上げる。
「しかし――今回は見送られた」
三枝主任が理由を問う。
「距離か?」
「それが一つだ。
南鳥島は日本の潜水艦基地から最も遠い。
出港準備を含めれば、到達まで最低二日はかかる」
高科が小さく息を呑む。
「……間に合わない」
「それだけではない」
榊原は資料をめくる。
「南鳥島周辺は水深六千。潜水艦の活動限界を大きく超えている。
AUVのような小型目標を探知するのも難しい。
護衛としての効果は期待できない」
誠は静かに理解した。
(……潜水艦を出しても、深海では役に立たない)
榊原はさらに言葉を重ねた。
「そしてもう一つの理由は――国際問題化のリスクだ。
敵AUVの所属は特定できていない。
この段階で潜水艦を派遣すれば、日本が軍事行動に踏み切ったと誤解されかねない」
高木が息を呑む。
「……だから、出せないんですね」
「そうだ。
潜水艦は“出したくても出せない”というのが現実だ」
榊原は資料を閉じ、乗員三人を見た。
「だが、何もしないわけではない。
《あまぎ》の警備体制は強化する。
陸自の警備班を追加し、海自の護衛艦を外周に配置する。
船上の安全は我々が責任を持つ」
誠は深く頷いた。
「……ありがとうございます」
三枝主任がまとめる。
「南雲さんたちは深海に集中してくれ。
戻ってくる場所は、我々が守る」
◆
格納庫。
《しおなぎ》は最終点検を終え、静かに待っていた。
整備員たちが最後の締め付けを確認し、工具を片付けていく。
高科が誠に声をかける。
「生命維持系、通信系、姿勢制御……全部問題なし。
深度六千、行けます」
誠は頷いた。
「頼む」
高木が端末を抱えて近づいてきた。
「誠さん。
“線”の補助データ、全部まとめました。
潜航中は私がモニターします」
誠は高木の目を見る。
「由理さん……本当に大丈夫か?」
高木は小さく笑った。
「怖いです。でも、覚悟は決めました。
誠さんを一人で行かせるわけにはいきません」
誠は言葉を失い、ただ頷いた。
◆
午後四時。
《しおなぎ》のハッチが開き、内部のライトが白く灯る。
高科が先に乗り込み、操縦席に座る。
「二人とも、準備できてるか?」
誠は頷き、ハッチの縁に手をかけた。
高木が隣に立つ。
その手はわずかに震えていたが、目はまっすぐだった。
「誠さん……行きましょう」
誠は深海の“線”を感じようと目を閉じた。
(……揺れが強い。
時間はない)
目を開け、言った。
「行こう」
二人は《しおなぎ》の内部へ足を踏み入れた。
ハッチがゆっくりと閉まり、金属音が格納庫に響く。
外では三枝主任と榊原室長、そして追加派遣された陸自の警備班が見守っていた。
榊原が静かに言う。
「――必ず戻ってこい」
格納庫の照明が落ち、潜水艇の外殻がわずかに振動する。
《しおなぎ》は、深海へ向かう準備を整えていた。
潜航開始は、次の瞬間に迫っている。
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