第61話 登山 ー 由理の告白
翌朝。
宿舎の玄関を出ると、冷たい空気が頬を刺した。
誠は深く息を吸い、
ゆっくり吐いた。
肺の奥まで入ってくる冷気が、
身体の輪郭をはっきりさせてくれる。
由理がリュックを背負って出てきた。
肩のベルトを整え、胸の前で軽く締め直す。
「誠さん、準備できました?」
「うん。行けるよ」
宿舎の前の道は、
昨夜の雪が薄く積もり、
踏みしめるたびに小さく音を立てた。
登山道の入口に着くと、
空気がさらに澄んだ。
木々の間から差し込む光が、薄い雪を柔らかく照らしている。
由理はリュックの横ポケットから鈴を出し、リュックにつけた。
「熊鈴と……熊スプレー、持ってきました」
誠は少し笑った。
「本格的だな」
「冬でも絶対に出ないとは言えませんから。……念のためです」
熊スプレーの缶は、
冷気で金属がわずかに白く曇っていた。
由理はその位置を確認し、すぐ取り出せるように角度を調整した。
「使い方は?」
誠が聞くと、由理は周囲の木々の揺れを見て風向きを確かめた。
「熊の方向に噴射します。
でも、自分が風上に立たないと、
自分にかかります。
風が悪い向きなら、
数歩動いて“自分が風上になる位置”に移動してから噴射します。
横風なら、熊と自分の間に風が抜ける角度を作ります」
誠は感心したように頷いた。
「……深海より難しいな」
「深海よりは、逃げ道があります」
由理は少し笑った。
白樺の林に入ると、
世界が一段静かになった。
幹の白さが雪に溶け込み、
光を反射して淡く揺れている。
風が吹くたび、枝の先に残った雪がさらりと落ち、細かい粒が光の中で舞った。
「……きれいだな」
誠が言うと、由理は少し笑った。
「白樺は、冬が一番きれいですね。
葉がないぶん、幹の白さが際立ちますから」
由理は指先で幹にそっと触れた。
冷たい木肌に触れた指が、わずかにこわばっていた。
少し進むと、枝の上に小さな影がちょこんと乗っていた。
「リス?」
「エゾリスですね。冬毛でふわふわしてます」
由理は嬉しそうに言い、誠は思わず笑った。
「なんか……いいな、こういうの」
「ふふ。北海道らしいですよね」
エゾリスはふたりを一度だけ見て、
すぐに枝の奥へ跳ねていった。
その動きが、雪の静けさの中でひどく軽やかに見えた。
道が細くなるにつれ、
空気がさらに冷たくなった。
風が白樺の枝を揺らし、かすかな音を立てる。
「……熊、出ませんよね」
由理が小さく言った。
「冬眠してるはずだよ。出てきたら……まあ、叫ぶか」
「叫んでも逃げませんよ。だからスプレーなんです」
由理はくすっと笑った。
その笑いは、緊張を少しだけ溶かした。
ゆっくり歩きながら誠は周囲を見渡した。
白樺の林は視界が開けているが、
日陰の部分はところどころ固まっていた。
雪の下に薄い氷が張っている場所もある。
「……ここ、少し滑りやすいかもな」
由理は小さく頷き、一歩踏み出した。
その瞬間——
「——っ」
雪の下の薄い氷に靴底が乗り、
由理の身体がわずかに傾いた。
誠は反射的に手を伸ばし、由理の腕を掴んだ。
斜面側へ倒れかけた身体を、誠は全身で踏ん張って支えた。
由理は震える息を吐いた。
「……っ……大丈夫……です……」
誠は由理の肩を支えたまま、
ゆっくりと安全な位置へ移動した。
由理は手袋越しに自分の指先を押さえた。
震えが、まだ残っている。
風が白樺の枝を揺らし、雪が細かく舞った。
その舞い方が、由理の震えと同じリズムに見えた。
誠は隣に立ち、呼吸が落ち着くのを待った。
由理は視線を落としたまま、小さく息を吸った。
「……震災で、家族を亡くしました」
誠は息を呑んだ。
「両親と……弟も。
家が崩れて……気づいたら、私だけが残っていて」
声は静かだった。
淡々としているのに、言葉の奥に深い傷があった。
「その時の……“落ちる”感覚が、ずっと身体に残っていて……」
由理は足元を見つめた。
雪の白さが、彼女の表情をさらに淡く見せた。
「高いところも……沈む場所も……
足場がなくなるのが、怖いんです」
誠はゆっくりと息を吸い、
その言葉を胸の奥で受け止めた。
風が吹き、白樺の枝がかすかに鳴った。
その音が、由理の震える声と重なった。
由理は小さく息を吐いた。
「誠さんが……支えてくれたから、言えたんだと思います」
誠は静かに言った。
「……ありがとう。話してくれて」
由理はかすかに微笑んだ。
その微笑みは、雪の光の中でひどく弱く、しかし確かだった。
ふたりはしばらく、
斜面の上で同じ景色を見つめていた。
白樺の林の向こうで、風が雪を舞い上げ、
光の粒が空気の中で揺れていた。
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