第60話 北の静養 ー 南雲の経歴は不明
北海道の朝は、薄い光の中で静かに始まった。
宿舎の窓を開けると、
冷たい空気が頬を撫でる。
誠は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
(……軽い)
胸の奥に沈んでいたざらつきは、
ほとんど感じない。
視界の端に白い粒が跳ねることもなかった。
由理がキッチンから顔を出す。
「よく眠れました?」
「うん。……久しぶりに“地上の眠り”だった」
由理はほっとしたように微笑んだ。
「今日は、少し歩いてみませんか?」
誠は頷いた。
宿舎の周囲は、
雪解けの匂いが薄く漂っていた。
誠はゆっくりと歩き出す。
足元の感覚が、深海とはまるで違う。
沈まない。揺れない。
ただ、地面がそこにある。
(……戻ってきたな)
由理が横で歩幅を合わせながら言った。
「歩くときの“線”が安定してます」
「自分でもわかるよ。身体が……地上に馴染んでる」
由理は小さく頷いた。
「歩くのは、南雲さんに合ってます」
誠は少し笑った。
「じゃあ、もっと歩かないとな」
十分ほど歩くと、誠はふと気づいた。
(……呼吸が深い)
深海では常に浅くなっていた呼吸が、
今は自然に胸の奥まで入ってくる。
由理が静かに言った。
「ここなら、ちゃんと戻れます」
誠は空を見上げた。
薄い雲の向こうに、淡い光が広がっている。
(……本当に、戻ってきたんだ)
◆
北海道・千歳市郊外、“環境データ解析会社”を名乗る小さなオフィス。
分析員がモニターを見つめ、眉を寄せた。
「……対象、今日も外出しています。
歩行は安定。体調不良の兆候は見られません」
上席の男は衛星画像を確認した。
「沖縄での作業中止の理由は、まだ掴めないか?」
「はい。
日本側の公式発表は“乱流による安全確保”。
ただ、中心人物がその直後に姿を消したのは事実です」
男は短く息を吐いた。
「原因は不明だが、“あの男”が鍵を握っているのは間違いない。
経歴は洗えたのか」
「南雲誠。北辰大学の助手という以外は特に出てきません」
「ただの助手があの誘導を?
不自然すぎる。……隠されている?
……国が隠すような存在ということか」
「追跡はどうしますか?」
「続けろ。ただし深入りはするな。
衛星と地上班で十分だ。
《ヴァルター》には深海側の監視を続けさせろ」
◆
午後。宿舎に戻ると、
誠はソファに腰を下ろした。
歩いた疲労はあるが、深海の“揺れ”はまったく出なかった。
(……地上の身体に戻ってきた)
ただ、深海のことを思い出すと、
胸の奥がわずかにざわつく。
それでも、歩くことに支障はなかった。
由理が温かい飲み物を手渡す。
「南雲さん、今日はよく歩けましたね」
「うん。自分でも驚いてるよ」
由理は誠の表情を見て、静かに息をついた。
「……明日、少しだけ遠くへ行きませんか?」
誠は顔を上げる。
「遠く?」
「はい。歩くのが良かったなら、
“地上の線”をもっと強くできる場所へ」
由理は窓の外の山並みに視線を向けた。
「……山です」
誠は少し驚いた。
「山か。いいと思うよ」
由理はわずかに視線をそらした。
「高いところは、少しだけ苦手なんです。
でも……南雲さんとなら、歩ける気がして」
誠は静かに頷いた。
「じゃあ、明日は山に行こう」
由理はほっとしたように微笑んだ。
夕方。由理は地図を広げ、
初心者向けの登山道を確認していた。
(……ここなら、南雲さんの負担にならない)
そして、自分自身にも。
夜。誠は荷物をまとめながら、
窓の外の薄い雪を見つめた。
(……明日は、山か)
深海の重さはもうない。
胸の奥のざわつきだけが、かすかに残っていた。
誠はゆっくり息を吐いた。
お読みいただきありがとうございました。
「続きが気になる!」「誠頑張れ!」と思ってくださった方は、ページ下部にある「ブックマーク登録」と「評価の☆☆☆☆☆」をポチッと押して応援していただけると執筆の励みになります。
よろしくお願いします。




