第59話 北の空気 ー 安らかな眠り
新千歳空港を出た瞬間、誠は思わず立ち止まった。
冷たい空気が頬を刺し、
肺の奥まで澄んだ風が流れ込む。
海の匂いは一切しない。
深海の“気配”も、どこにもない。
(……軽い)
胸の奥に沈んでいたざらつきが、呼吸と一緒に抜けていくようだった。
由理が隣で小さく笑った。
「南雲さん。顔が、少し戻りました」
「そうか?」
「はい。沖縄では……ずっと緊張してましたから」
誠は苦笑し、肩の力を抜いた。
「……確かに、空気が違うな」
「違います。
ここは“深海の線”が届かない場所ですから」
由理の言葉は静かだったが、確信があった。
車で一時間。
二人が向かったのは、JAMSTIKの北海道分室に併設された小さな宿舎だった。
木造の建物は雪解けの匂いに包まれ、
窓からは遠くの山並みが見える。
誠は荷物を置き、深く息を吸った。
(……本当に、何もない)
深海の“揺れ”も、白いノイズも、
あの重い圧も、どこにもなかった。
由理が部屋の隅に置かれた温風ヒーターを点けながら言った。
「ここなら、
南雲さんの“線”は自然に戻ります。
無理に治す必要はありません」
誠は頷いた。
「……ありがとう。ここなら、眠れそうだ」
「眠ってください。今日は移動だけで十分です」
由理の声は柔らかかった。
夕方。
宿舎の食堂で、二人は温かいスープを前に向かい合っていた。
誠はスプーンを口に運びながら、ふと気づいた。
(……手が震えていない)
沖縄では、食事のたびに指先がわずかに揺れていた。
深海の“残響”が身体の奥に残っていたからだ。
だが今は――何もない。
由理が静かに言った。
「南雲さん。
今日は、目の動きも呼吸も安定してます。
深海の影響は……ほとんど抜けたようですね」
誠はスープを置き、深く息を吐いた。
「……本当に、離れるだけで違うんだな」
「はい。深海は“距離”が効くようです。
触れなければ、身体は自然に戻ります」
由理の言葉は、医療でも科学でもなく、
“経験”から来る確信だった。
誠は窓の外を見た。
夕暮れの空は薄い紫に染まり、山の稜線が静かに沈んでいく。
(……地上の色だ)
深海の青とは違う、乾いた空気の色。
その違いが、誠の胸の奥をゆっくりと解きほぐしていった。
食後、宿舎の廊下を歩いていると、
由理がふと足を止めた。
「南雲さん」
「ん?」
「……ここにいる間は、
深海のことを考えないでください。
考えた瞬間に、身体が“そっち側”に引かれてしまいます」
由理は誠の目をまっすぐ見た。
「ここでは“地上の南雲さん”でいてください」
誠は息を呑んだ。
(……地上の南雲)
深海の揺れを読む自分ではなく、
ただの南雲誠としての自分。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
「……わかった。そうするよ」
由理はほっと息をついた。
「よかった。……じゃあ、今日は早く休んでください」
誠は頷き、部屋へ戻った。
夜。
ベッドに横たわると、
誠は久しぶりに“何も聞こえない”静けさに包まれた。
深海の圧も、揺れも、白いノイズも――
どこにもなかった。
(……眠れる)
目を閉じると、
意識はすぐに深い眠りへ沈んでいった。
その眠りは、
沖縄では一度も得られなかったほど静かで、
深海とは無縁の、地上の眠りだった。
◆
同じ頃。
沖縄トラフ外縁、“民間調査船”に偽装した監視船。
分析員が画面を見つめ、静かに言った。
「……日本側、中心人物を北海道へ移動。
深海作業は完全に停止したままです」
ゲイルは短く答えた。
「こちらは引き続き《あかつき》を監視する。
……北海道支部に連絡を」
海は静かだった。
だが、その静けさの奥で、組織の手は北海道にも伸びようとしていた。
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