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第58話 北へ向かう理由 ー 北海道へ

 翌朝。

那覇の空は薄い雲に覆われ、海風がゆっくりと街を撫でていた。


宿舎の食堂で、

誠は湯気の立つ味噌汁を前にしていた。

だが、箸を持つ指先がわずかに痺れている。


(……まだ残ってる)


深海の“揺れ”は、眠っても消えなかった。

視界の端で白い粒が跳ねるたび、誠は無意識に呼吸を整えてしまう。


向かいに座る由理が、静かに言った。


「南雲さん。

今日、三枝主任と話し合います。

このまま沖縄にいても、誠さんの状態は戻りません」


誠は苦笑した。


「……逃げるみたいだな」


「逃げるんじゃありません。

離れるんです。

深海の“気配”から、いったん距離を置く必要があります」


由理の声は静かだったが、揺れていなかった。


誠は箸を置き、深く息を吐いた。


「……わかった。主任の判断に従うよ」


午前十時。〈あかつき〉船内会議室。


三枝主任が資料を閉じ、誠と由理を見た。


「南雲さん。

あなたの負荷は限界を超えています。

白石医師の見立てでは、深海の情報が脳に残留している可能性が高い」


誠は黙って聞いていた。


「このまま沖縄にいても改善は見込めません。

環境を変え、深海から完全に離れた場所で休養する必要があります」


由理が静かに言葉を継ぐ。


「……北海道に戻りましょう。

海の匂いがしない場所で、南雲さんの“線”をいったんリセットするんです」


誠は短く息を吐いた。


「……そうだな。戻るよ」


三枝主任は頷いた。


「今日の便で手配する。南雲さん、由理さん、すぐに準備を」


誠は立ち上がりかけて――視界がふっと揺れた。


白いノイズが、昨日より“太く”跳ねた。


由理が即座に支える。


「南雲さん!」


誠は額に手を当て、ゆっくりと息を整えた。


「……大丈夫。ちょっと、来ただけだ」


だが、その“来ただけ”が、昨日より明らかに強かった。



那覇空港。


搭乗口へ向かう途中、

誠は歩くたびに視界の端がわずかに揺れるのを感じていた。


(……深海の揺れじゃない。

 でも、あの“芯”が残ってる)


由理は誠の歩幅に合わせ、横を歩いていた。


「南雲さん。

無理に歩幅を合わせなくていいです。

揺れたら、すぐ言ってください」


誠は苦笑した。


「……心配性だな」


「南雲さんが無茶をするからです」


言葉は淡々としているのに、声の奥にある緊張は隠せていなかった。


搭乗アナウンスが流れ、二人はゲートへ向かった。


その背中を、遠く離れた海の上から――

別の“視線”が静かに追っていた。



同じ頃。

沖縄トラフ外縁、“民間調査船”に偽装した監視船。


分析員が画面を見つめ、眉を寄せた。


「……日本側、深海作業を完全に停止しました。

中心人物と思われる男が、昨日から姿を見せていません」


ゲイルが目を細める。


「想定外の事態が生じたのか?」


「可能性はあります。

ただ……理由は不明です。

深海のデータに異常があったのか、本人の問題なのか……」


分析員は別の画面を開いた。


「ただ、日本側の動きが妙です。

船の通信量が減り、代わりに“移動準備”の兆候が出ています」


「……深海作業を終えるつもりか?」


「まだ断定はできませんが、

“中心人物を別の場所へ移す”動きに見えます」


ゲイルは静かに言った。


「ならば――次の機会を待つことになる。

引き続き監視を怠るな」


海は静かだった。

だが、その静けさの奥で、別の“意図”が確実に濃くなりつつあった。



那覇→羽田→新千歳。


移動のあいだ、

誠はほとんど眠れなかった。

機内の振動が、深海の“揺れ”に似ていたからだ。


(……違う。

これは飛行機の揺れだ。

わかってるのに、身体が勝手に反応する)


由理が隣で小声で言った。


「南雲さん、深呼吸してください。

ここは深海じゃありません。空です」


誠はゆっくりと息を吸い、吐いた。


白いノイズは弱まったが、完全には消えなかった。


新千歳空港に降り立つと、冷たい空気が頬を刺した。


誠は深く息を吸った。


(……海の匂いがしない)


それだけで、胸の奥のざらつきが少しだけ薄れた。


由理が隣で言った。


「ここからが本当の休養です。

南雲さんの“線”を、いったんゼロに戻しましょう」


誠は頷いた。


「……頼りにしてるよ、由理さん」


空は澄んでいた。

だが、その澄んだ空の下で、誠の視界にはまだ――

白いノイズの残滓が、かすかに瞬いていた。


お読みいただきありがとうございました。

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