第57話 医務室と報告 ー 白いノイズの残滓
那覇港に戻った《あかつき》は、夕暮れの光を受けて静かに揺れていた。
乱流の回復が見込めず、沖縄チムニーでの作業はすべて終了となった。
深度一六〇〇の乱流、
限界ぎりぎりの誘導、
白いノイズ。
あの“深海の領域”に触れた瞬間から、誠の頭の奥にはずっとざらつきが残っている。
タラップを降りた瞬間、足元がふっと揺れた。
「南雲さん!」
高木由理がすぐに腕を支える。
触れた指先に、
誠の体温がわずかに低いのを感じた。
「……大丈夫。ちょっと、視界が遅れるだけだ」
誠は笑おうとしたが、
視界の端で白い粒が一瞬だけ跳ねた。
由理はその“わずかな遅れ”を見逃さない。
「医務室に行きます。
南雲さんの状態は、普通の疲労じゃありません」
誠は反論しようとしたが、言葉が喉で止まった。
深海の“揺れ”が、まだ頭の奥に残っている。
医務室。
簡易ベッドに横たわる誠の脈を、医師が静かに測る。
「身体的な異常はありません。
ただ……脳の処理系に負荷が残っていますね」
由理が息を呑む。
「昨日の深度での反応は……疲労では?」
医師は首を振った。
「疲労だけでは説明できません。
“深海の情報”が残留している可能性があります」
誠は天井を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
(……やっぱり、ただの疲れじゃない)
◆
夜。JAMSTIK本部とのオンライン報告。
三枝主任が端末越しに状況を説明する。
「……第一サンプルは採取成功。
しかし二回目の抽出は中止。
深度一六〇〇で乱流が発生し、
《しらぬい》は緊急回収。
南雲さんの負荷も限界に近かった」
官邸資源技術補佐官・三宅が眉をひそめる。
「白ノイズの原因は?」
「現時点では不明です。
ただ、疲労とは別の要因がある可能性が高い」
「……深海の負荷が脳に影響を与えたのか?」
三枝主任は短く頷いた。
「その可能性を排除できません」
報告が終わると、由理は誠の横に座り、小さく言った。
「……今日はもう休みましょう。
南雲さんの身体が、限界のサインを出してます」
誠は返事ができなかった。
那覇の宿舎に戻ると、外はすでに夜の気配に包まれていた。
港の灯りが遠くで揺れ、
風が窓をわずかに震わせている。
誠はソファに腰を下ろし、
背もたれに体を預けた。
深海の圧とは違う、じんわりとした疲労が全身に広がっていく。
「……変な感じだな。身体が自分のものじゃないみたいだ」
由理は温かい飲み物を手渡し、誠の隣に静かに座った。
「今日の南雲さんは、
反応がいつもと違いました。
呼吸のリズムも、視線の動きも……全部」
誠は苦笑した。
「隠せてなかったか」
「隠さないでください。
南雲さんの状態を見るのは、私の役目ですから」
由理の声は静かだったが、芯があった。
誠はカップを両手で包み込み、
ゆっくりと息を吐いた。
その指先がわずかに震えていることに、自分でも気づく。
(……まだ引きずってる)
白いざわつきは弱まっていたが、完全には消えていなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、由理がぽつりと言った。
「……怖かったんです」
誠は顔を上げる。
「南雲さんが、
あのまま戻ってこないかもしれないって。
昨日の成功があったぶん、余計に……」
由理の声は震えていたが、言葉はまっすぐだった。
「心配した?」
「心配しました。でも、今は怒っています。
ここまで無理をしてほしくなかった」
誠は返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。
「南雲さんは、深海に触れすぎました。
身体も、頭も、限界のサインを出してます」
誠は視線を落とした。
(……わかってる。わかってはいるけど、言葉にすると重い)
由理は続けた。
「だから……環境を変えましょう。
海の匂いがしない場所で、ちゃんと呼吸できるところへ」
誠はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
「……そうだな。今のままじゃ、引きずるだけだ」
由理はほっと息をついた。
「明日のことは、
朝になってから決めましょう。
今日は……休んでください」
誠は小さく頷いた。
窓の外の灯りが、二人の影を静かに揺らしていた。
その揺れの奥で、誠の視界にはまだ――
白いノイズの残滓が、かすかに瞬いていた。
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