第54話 抽出の成功 ー 熱水チムニーの資源
深度千三百。
《しらぬい》の降下が、
わずかに緩やかになる。
数値に異常はない。
ただ、空間全体が均一ではなくなっていた。
誠は意識を探査艇の下へ沈める。
地形と流れが重なり合い、
一枚では掴めない“厚み”として立ち上がってくる。
(……ここからが、壁だ)
高木由理が負荷計を見ながら言った。
「反応は正常範囲です。ただ……拾っている層が、少し深い」
誠は短く頷く。
「問題ない。ここまでは想定内だ」
胸の奥に、薄い圧が残る。
だが、判断を鈍らせるほどではない。
深度千六百。
前方に、影が現れた。
岩ではない。
海底から細く伸びた塔状の構造物が、
闇の中にいくつも立ち上がっている。
その根元から、
淡い噴出がゆっくりと立ちのぼっていた。
黒とも白ともつかない煙が、
水中で層を作り、崩れ、また溜まる。
数値には現れないが、周囲の水がわずかに“重さ”を変えている。
若手オペレーターが、思わず息を漏らした。
「……あれが、熱水チムニー……」
説明は続かなかった。
《しらぬい》が近づくにつれ、
画面の縁に小さな生命反応が滲みはじめる。
誠はその光景を、一瞥しただけで意識を戻した。
三枝が前方データを確認する。
「予定地点まで、あと二十メートルです」
ソナーには淡い粒子帯が映り始めていた。
AIの解析も、抽出可能域を示している。
誠が言った。
「……そのまま行かないでください」
三枝はすぐに応じる。
「止めますか?」
「少し左へ。今の位置は、通過中だ」
若手が画面を見て眉を寄せる。
「……数値では、中心ですけど」
誠は一拍置き、答えた。
「上はな。下が違う」
AIは判断を出さない。
乱れも、警告もない。
三枝は一度、由理を見る。
由理は負荷計から目を離さず言った。
「否定材料はありません」
それで十分だった。
「……了解。南雲さんの判断で寄せる」
《しらぬい》が、わずかに姿勢を変える。
誠の中で、地形と流れが静かに重なる。
(……今だ)
「ここで止めてください」
探査艇が静止する。
若手がソナーを凝視する。
「……中心から、少し外れてます」
誠は即答しない。
一呼吸おいて、言った。
「動いてた。今は、ここだ」
由理が負荷計を見つめる。
一瞬だけ、その視線が止まった。
「……反応、想定より少し負荷が強いです。南雲さん、どうですか」
誠は短く言う。
「大丈夫。まだいける」
三枝が指示を出した。
「アーム、展開」
アームがゆっくりと伸び、
黒い粒子帯に入っていく。
掴めた。
その感覚と同時に、誠の内側に、じわりと圧がかかる。
(……少し、きつい)
だが、ブレはない。
由理が静かに言った。
「流れ、安定しています。
無理な引きは、出ていません」
誠が言う。
「抽出、開始」
吸引が始まる。
三枝が低く息を吐く。
「……静かですね」
ベテランが頷いた。
「余計な層に触ってない。位置決めがいい」
若手が画面を見つめながら言う。
「この深度で……作業してる感じがしません」
「無理をしてないからだ」
誠の声は落ち着いている。
だが、額に汗が滲んでいた。
吸引が止まる。
由理が即座に判断した。
「……ここまでです。これ以上は、負荷が増えます」
由理の声が遠く聞こえる。
誠は一瞬だけ間を置き、
「——了解」
アームが引き上げられる。
データは安定し、抽出は成功していた。
三枝が言った。
「一回目、完了。……きれいに取れました。
大きな成果です」
若手が素直に言う。
「初回で、ここまで安定するとは……」
ベテランが頷く。
「壁の手前で止めてる判断が、効いてる」
誠は椅子の背にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。
「南雲さん、呼吸が乱れています。休んでください」
「平気だよ……ちょっと深海の重さにやられただけだ」
そう言いながら、耳鳴りを感じていた。
《しらぬい》は姿勢を保ったまま待機している。
由理は黙ってログを確認し、通常よりも細かい区分で保存した。
三枝が全体に告げる。
「一回目抽出、成功。本日の作業は、ここまで」
作業区画に、静かな達成感が広がる。
誠は目を閉じ、一度だけ深海へ意識を落とし、引き戻した。
(……今日は、ここまでだ)
数値は安定している。
ただ、今はもう一度同じ判断を重ねる気にはなれなかった。
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