第53話 深海の入り口 ー 脅威の誘導
《あかつき》は沖縄トラフ外縁で微速を保っていた。
海面は穏やかだが、
その下には確かな深さがある。
昨日までとは質の違う“重さ”が、
船体の下に積み重なり始めていた。
誠は手首の補正バンドに親指を当て、
脈に合わせて微かな振動を確かめる。
視線はモニターに向けているが、
見ているのは表示された数値ではない。
(……ここからだ)
高木由理がヘッドセットを差し出した。
「今日は深度千まで。“入口”の確認です。作業はしません」
誠は短く頷く。
「了解。境界の感じを見る」
無人探査艇〈しらぬい〉が静かに降下を開始した。
深度五百。
海はまだ素直だった。
地形も流れも、一枚の板のように整っている。
誠は何も言わない。
若手オペレーターが数値を読み上げる。
「深度五百、姿勢安定。
流速、問題ありません」
その後、深度八百を越えたあたりで、誠の呼吸がわずかに変わった。
(……層が増えた)
海底の像が、誠の中で立体的に歪む。
平坦だった底に、
ゆるやかな起伏と、流れの溜まりが浮かび上がる。
誠が言った。
「降下、このままでいい。速度も維持」
三枝は確認し、頷く。
「了解。降下続行」
「一度、直接抽出を試す」
海底を探り、粒を一つだけ分ける。――コトン。
「かなりきつい。チムニー付近の直接抽出は無理だ」
「《しらぬい》誘導に専念しましょう」
「了解した」
深度千。
空間の密度が、一段変わる。
誠ははっきりとした“引っかかり”を感じた。
(……入口だ)
誠は即座に言った。
「主任、右には入らないでください」
三枝が画面を確認する。
「右回廊ですか?
ソナー上、乱れは見えません。
AIも判断保留です」
「今は出ない」
誠の声は淡々としている。
「けど、底が窪んでる。
流れが溜まって、逃げ場がない」
若手が思わず口を挟む。
「……数値には、出てません」
誠は画面から目を離さない。
「数値に出る前の話だ。
このまま進むと、引かれる」
短い沈黙が落ちる。
三枝は一度だけ息を吐いて、決断した。
「……進路を左へ。南雲さんの判断を取る」
《しらぬい》がわずかに進路を変えた。
その瞬間だった。
通過予定だった正面方向のソナー線が、急に歪む。
流速表示が跳ね上がった。
若手が声を上げる。
「乱流……! 流れ、急変しています!」
遅れて、AIが警告を出す。
『前方海域、姿勢乱れの可能性』
ベテランが画面を見つめ、低く言った。
「……あのまま行ってたら、姿勢崩してたな」
由理が負荷計を確認しながら続ける。
「作業続行は不可能でした。
入口確認で航行を中断していたはずです」
三枝は誠のほうを見た。
「AIは、直前まで分からなかった。
……助かりました」
誠は肩の力を抜き、短く答えた。
「危なそうな道を避けただけです」
若手が、感心したように言う。
「……結果的に、一番楽なルートでしたね」
ベテランが頷く。
「無駄な揺れがない。
こういう判断が一番ありがたい」
《しらぬい》は、安全な層を保ったまま、静かに進む。
乱流帯は、少し離れた場所で荒れ続けていた。
深度千百。
誠は、そこで手を止めた。
「……今日はここまででいい」
由理が即座に頷く。
「同意します。揺れの質が変わっています。
“入口”は確認できました」
三枝が指示を出す。
「《しらぬい》、上昇準備。今日は切り上げる」
作業区画に、安堵の空気が広がる。
若手が小さく言った。
「……入口って、想像よりずっと危ないですね」
ベテランが答える。
「だから、こういう人が必要なんだ」
誠は椅子の背にもたれ、静かに息を吐いた。
海底の像は、ゆっくりと意識の奥へ沈んでいく。
(……明日からが勝負だ)
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