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第52話 出航 ー 海洋調査船 《あかつき》

 出航前夜。


艤装を終えた 《あかつき》の甲板は、

昼間の音をすべて飲み込んだように静かだった。

雲の切れ間からのぞく月が、

手すりに置いた指の節を白く浮かび上がらせる。


潮と鉄の匂いを含んだ風を吸い込みながら、

誠は海面の黒さを見下ろした。


(……海は撃墜されたとき以来だ。

遠い昔のことみたいだ)


「南雲さん」


背後から名を呼ばれ、振り返る。


高木由理が、

小さな紙袋を胸に抱えて立っていた。

いつもの無表情に近い顔なのに、

視線の置き場が定まらない。


「渡しそびれるところでした」


「なに?」


「今日、誕生日ですよね。任務上、必要だと思って」


差し出された紙袋の中には、

細身の黒いバンドが入っていた。

内側には、

微細なセンサーパターンがびっしりと刻まれている。


「“負荷の揺らぎ”を補正する試作です。

深海は情報が多すぎて、線がにじみますから。

少しでも、焦点が削られないように」


「俺のために作ったのか」


「任務です。

……たまたま、誕生日に間に合っただけで」


言葉は素っ気ないのに、耳朶がわずかに赤い。


誠はバンドを手首に巻いた。

由理が一歩近づき、センサの位置を指先で整える。

冷たい指が一瞬だけ肌に触れ、すぐ離れた。


「どうですか」


「……ざらつきが、一段薄くなった気がする」


「気のせいでも構いません。

そういう“気のせい”が、海では効きます」


由理が短く息を吐いたそのとき、

甲板の階段から足音がした。


「南雲君、ここにいたか」


振り返ると、

JAMSTIK技術主任・三枝が立っていた。

作業着の胸ポケットには、

折り畳まれた図面が差し込まれている。


「主任」


「出航前に、一度挨拶しておこうと思ってね」


三枝は海面を一瞥し、

誠の手首のバンドに気づいた。


「それが例の補正バンドか。

高木君の新作だろう?」


由理が小さく頷く。


「はい。

深海での“揺らぎ”を少しでも抑えるために」


三枝は満足そうに息をついた。


「今回の作業は、南雲君の負荷が鍵になる。

だから——」


主任は誠のほうへ向き直る。


「作戦は“二段構え”だ」


誠は静かに聞いた。


「まずは直接抽出を試す。

君の感覚が噛み合えば、それが最短だ。

だが、深度によっては環境が許さない可能性がある」


由理が続ける。


「その場合は、

無人探査艇しらぬい誘導へ切り替えます。

南雲さんの領域を読む能力は、

誘導にも生きるはずです」


三枝は短く頷いた。


「判断は現場でいい。

南雲君が“無理だ”と思ったら、迷わず二段目に移る。

深海は、こちらの都合を待ってくれないからね」


誠はその言葉を胸の奥で受け止めた。


「……わかりました。

最初から、そのつもりで行きます」


三枝は満足そうに笑った。


「頼んだよ。君の判断が、全体の安全を左右する」


主任は由理に軽く会釈し、階段を降りていった。


残された潮風の中で、

誠は手首のバンドを軽く押さえた。

脈に合わせて、ごく弱い振動が返ってくる。


胸の奥だけが、潮風とは違う温度で静かに温かかった。



翌朝。出港の汽笛が二度、低く響く。


《あかつき》はゆっくりと岸を離れ、

港の色を後ろに押しやった。

波の目が揃った外洋に出ると、

船体の揺れ方が変わる。


「南雲さん、昼です。

今日はカツオ出汁のカレーですよ」


由理が紙皿を差し出す。

スパイスに出汁の丸みが重なり、

湯気が風にちぎれていく。


「……うまい。

こういうのが出ると、船って感じがするな」


「海は体力勝負ですから。

食べられるうちに食べてください」


給湯室のクーラーボックスには、

半解けの冷凍ミカンが詰め込まれていた。

果肉の冷たさが、胸の中をまっすぐにする。


船は南へ向かい、海の色が一段ずつ深くなっていく。


まだ波の皺は浅い。

だが、船底の下には、目に見えない“重さの層”が

少しずつ増えているのがわかる。


誠は手首のバンドを軽く押さえた。

脈に合わせて、ごく弱い振動が返ってくる。


(……明日から、深海の入口に入る)


空は澄み、風は乾いていた。

《あかつき》は静かに沖縄トラフへ向けて進んでいく。



同じ頃。オブシディア本部・情報分析室。


「日本の海洋調査船 《あかつき》、

大規模整備を終えて出港しました」


「原発デブリ除去の一件から間もない。

……次の一手か」


「海保と海自の動きも微妙に増えています。

目的は不明ですが、

何かを隠している可能性が高い」


上級分析官が短く言う。


「《ヴァルター》に回せ。

ゲイルに“監視を強化せよ”と伝えろ」


暗号通信が送られた。


「こちら《ヴァルター》、受信した。

……日本が動く。追うぞ」


海は静かだった。

ただ、その静けさの奥で、別の“視線”が

ゆっくりと濃くなりつつあった。



お読みいただきありがとうございました。

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