第50話 深海前倒し ー 由理との会話
会議室を出た瞬間、
夜の空気が一段冷たく感じられた。
廊下の照明は半分落とされ、足音だけがやけに響く。
高木由理は、
誠の歩調に合わせながら静かに口を開いた。
「……長官が急いでいるように見えましたか?」
「見えたな。あれは“決めていた顔”だ」
「ええ。でも、急がせているのは国内じゃありません」
由理の声は落ち着いているように見えて、
その奥に微かな動揺があった。
「南雲さんの成果に、
世界の“目”が寄ってきています。
線量低下の速度が、
あまりにも説明できなさすぎる。
だから深海を“前倒し”して、
視線をそちらへ向けるんです」
誠は歩きながら、窓の外の黒い空を見上げた。
雲は低く、風はほとんどない。
静かすぎる夜は、逆に胸の奥をざわつかせる。
「……沖縄に戻れるのは、正直うれしいよ」
「それはいいことですね。でも――」
由理は言葉を切り、誠の横顔を見た。
「深海は“安全な場所”じゃありません。
外の組織が動いているなら、なおさらです。
あなたの能力が“海でも使える”と知られたら……
狙われる可能性だってある」
誠は立ち止まり、由理のほうを向いた。
「狙われるって……俺が?」
「はい。
今日の三枚で、
廃炉の工程が二ヶ月前倒しになった。
そんな技術を、世界が放っておくわけがありません」
由理は拳を握りしめていた。
その指先がわずかに震えている。
「……気づいてますよね。
今日の官邸の説明、
あれは“成果の報告”じゃなくて、
南雲さんをどう守るかの相談でした」
誠は息を呑んだ。
(……守る? 俺を?)
由理は続ける。
「深海調査は“盾”です。
あなたを海に送ることで、外の視線を散らす。
でも同時に、“海のほう”にも別の視線がある」
香月が言っていた“海の気配”が脳裏をよぎる。
誠はゆっくり息を吐いた。
「……わかった。
まあ、俺はやるべきことをやるだけだ。
それは変わらない」
「それでいいんです。
でも――」
由理は誠の袖をそっとつまんだ。
普段なら絶対にしない仕草だった。
「南雲さん。……本当に、気をつけてください」
その声は、職務の硬さではなく、
“個人としての由理”の硬さだった。
誠は小さくうなずく。
「ありがとう。
明日は“読み取り”だけだろ?」
「はい。負荷は増やしません。
今日の分は……ちゃんと休んで返してください」
「返すって言うなよ」
「言います。返してもらわないと困りますから」
由理はそう言って、ようやく少しだけ笑った。
廊下の暗がりを歩きながら、
誠は沖縄の海を思い出していた。
三浦や佐伯の顔が頭に浮かび、
懐かしさがこみ上げてきた。
夜の施設は静まり返り、
その静けさの奥で、確かに“次の段階”が動き始めていた。
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