第5話 医務室の違和感 ー 探りに来た男
医務室は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。
白い壁、白い光、白い天井。
その無音の白の中で、南條は自分の掌を見つめていた。
(……さっきのは、なんだ?)
ボールペンが動いた。
音もなく、揺れもなく。
ただ位置が変わっていた。
風のせいにできない。
見間違いと言い張るには、あまりに確かだった。
胸の奥でざわめく白い残光。
墜落の瞬間に見た光が、まだ視界の端でちらついている。
落ち着こうと深く息を吸ったが、肺に入る空気はどこか重い。
(気のせい……じゃない)
そのとき。
──コン、コン。
乾いたノック音が医務室の静けさを裂いた。
「南條二尉、入ります」
カーテンがわずかに揺れ、スーツ姿の男が現れた。
気配は薄いのに、空気が一段冷えるような存在感。
「初めまして。内閣府危機管理センターの黒川です」
黒川。
その言葉の響きだけで、軍医が一瞬だけ目を揺らした。
階級章もネームプレートもない。
だが、この男は“枠の外側で動く何か”だと、南條は直感した。
自然と背筋が伸びる。
「……内閣府が、なぜここに?」
黒川は答えず、無駄のない動作で南條の前に椅子を置いた。
座る所作すら音がしない。
「撃墜の件につき、政府として確認したい点があります」
その声は温度を持たない。
曇りも焦りもない、ただ事実だけを拾い上げる声。
胸が冷たく締めつけられる。
黒川は淡々と言葉を重ねた。
「敵機の攻撃直後、レーダーと光学監視が同時に飽和しました。
通常の爆発では説明がつかない現象です。――何か心当たりは?」
「……ありません」
言った瞬間、自分の鼓動が一拍遅れた。
黒川はまばたきもせず、次の問いへ移る。
「撃墜の瞬間、意識は?」
「……途切れました。気づいたら海でした」
「なるほど」
短い相槌。
だが、その一言の裏で“計算”が走っているのが分かる。
黒川はわずかに身を乗り出した。
「最後に――何か、見た。あるいは……聞いた。そんなことは?」
胸が跳ねた。
呼吸が止まる。
白い光。
耳の奥に落ちた“声”。
そして、ボールペン。
(……言えるわけがない)
沈黙が落ちる。
数秒。
だが永遠に感じられる時間。
南條は唇を噛み、かすれた声で答えた。
「……ありません」
黒川の目が細くなる。
その目は“嘘を暴こうとする目”ではない。
“すでに答えを知っている者の目”のようだ。
静かに立ち上がると、絞り出すような声で、
「ご協力、感謝します。また伺います」
一礼し、足音もなく医務室を出ていった。
扉が閉まった瞬間、南條は肺に空気を流し込んだ。
「……は……っ」
張りつめていた何かが溶け、身体が重力を思い出す。
(疑われてる……? いや、それ以上に……“知ってる”顔だった)
黒川の視線が脳裏で反芻される。
あの目は、未知の現象に遭遇した人間の目ではない。
“想定していた何かを確認した”ような視線。
南條は机の上のボールペンへ視線を移した。
そこにあるだけで、心臓がひとつ跳ねる。
さっきの数センチの移動。
音も、理由もない。
(もし、また動いたら……)
その瞬間、
ペンの影が――揺れた。
ほんの、わずか。
実体が動いたわけではない。
影だけが風もないのに揺れた。
南條の背筋に冷たいものが走る。
(……やっぱり、俺の中で何かが……)
説明できない力が、自分の内側に芽生えている。
黒川はきっと、それを“探りに来た”。
そして、国が動き始めた。
南條はゆっくりと目を閉じた。
白い光の残滓が、暗闇の中で揺らめく。
――選ばれた。
その声だけが、胸の奥で静かに鳴り続けていた。




