第43話 読み取り前夜 ー 緊張してないと言ったら嘘
会議室を出ると、
午前の光が廊下に斜めの線を落としていた。
「明日の現地入り、準備は整いましたね」
高木由理が歩調を合わせる。
その短い言葉の後ろに、彼女は何かを飲み込んだ。
高木は一度だけ深く息を吸い、表情を整えた。
「ああ。
訓練の延長って言い聞かせないと、肩に力が入る」
「延長です。ただ、場所と空気が違うだけ。
やることは同じですから」
すれ違いざま、ガラスに自分の姿が薄く映る。
特別な装備はない。道具も持たない。
必要なのは、境界を判断する能力だけだった。
――“選ぶ”だけ。
けれど明日からは、その“選ぶ”の意味が一段深くなる。
研究室のドアに手をかける前、高木がふと立ち止まった。
「明日、顔色が“紙”になったら迷わず引き返しましょう」
「ひどい例えだな」
「わかりやすい例えが、一番です」
南雲は笑ってみせる。
「じゃあ、紙になる前に止めてくれ」
「任せてください。
私はそのために同行するんですから」
その言葉は、
職務の硬さの奥に、わずかな温かさを含んでいた。
研究区画を出ると、
外気は昼よりも冷たく、冬の名残が細く漂っていた。
南雲は深く息を吸い、
胸の奥に残った訓練の緊張をゆっくり押し出す。
明日の朝、自分は東雲第一エネルギーセンターに入る。
訓練で触れてきた“模擬の境界”ではなく、
十年以上封じられてきた“本物の境界”だ。
(……いよいよか)
廊下の端で足を止めると、
ガラス越しに夜の施設が見えた。
照明は落とされ、作業員の影もまばらだ。
だが、静けさの奥には、確かに“動き始めた気配”があった。
高木が横に立つ。
「緊張、してますか?」
「してないと言ったら嘘になるな」
「してていいんです。
緊張してるほうが、誠さんは安定しますから」
「褒められてる気がしない」
「褒めてますよ。
……ちゃんと怖がれる人は、無理な踏み込みをしません」
高木の声は柔らかいが、言葉の芯は揺れない。
「IAEA の問い合わせ、増えてます」
「香月さんが言ってたやつか」
「はい。
“日本が何かを始めた”という空気は、もう外に漏れています」
南雲は窓の外を見た。
夜の空気は静かだが、落ち着かない感覚が残った。
「俺がやるのは、薄い線を一本引くだけだ」
「その一回の読み取り結果が、
世界の判断基準になります」
高木はそう言って、わずかに微笑んだ。
「でも、誠さんは誠さんの仕事だけをすればいい。
外の視線は、私たちが受けます」
南雲は小さくうなずく。
「……明日、頼む」
「任せてください」
研究棟の灯りがひとつ、またひとつ落ちていく。
夜の施設は深い海の底のように静まり返り、
その静けさの奥で、確かに何かが動き始めていた。
明日の朝、南雲誠は現地に入る。
まだ誰も知らない深さで、境界の線を一本だけ引く。
その細い線が、
この国の未来の太い道に変わるかもしれない。
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