第35話 山の下に眠るもの ー うまくいかないときもある
翌朝。
札幌の空は白く濁り、
薄い雪雲が研究区画の廊下の温度を一段下げていた。
自販機の缶コーヒーを両手で包み、南雲はゆっくり息を吐く。
金属の匂いが、空調の奥にかすかに残っている。
高木が端末を抱えて入ってきた。
「おはようございます。体調は?」
「まあ、普通。
昨日、歩いたのが効いたのか、頭の重さは少し抜けた」
高木は一度だけ目を細め、端末を開く。
古い地質図に、幾本もの薄い線が重ねられていた。
「昨日あなたが“変化”を感じた地点。
戦後に閉じられた旧鉱山の坑道が近くにあります。
そして、そのさらに下層に、密度の揺らぎが観測されました。
自然鉱脈の可能性が高いです」
南雲は眉を上げた。
「……俺、また仕事を増やした?」
「増やしました。あなたが“感じてしまう”ので」
言い切ってから、ほんの一拍だけ視線を外す。
任務の声色なのに、わずかな躊躇が混じっていた。
「ただ、提案するのは私です。
あなたが“やらなきゃ”と背負う必要はありません。
政府が段階を決めて、あなたは安全な範囲で試すだけですから」
「それなら、少しは気が楽だな」
高木はその場で簡潔な調査報告をまとめ、送信。
すぐに端末が震えた。
「“現地調査および試験抽出を許可。
危険時は即時中止”——大臣決裁です。早い」
南雲は缶を握り直した。
(判断が速い……誰かの得と損が、遠くで計算されている)
胸の奥でかすかに冷たいものが揺れたが、飲み下して歩き出した。
◆
林道は、凍った土が靴底を鈍くたたく音を返した。
斜面に埋もれるように、錆びた鉄扉。
封鎖された旧坑の口は、冬眠中の獣みたいに沈黙している。
地質班の技師たちが測定器を並べていた。
誰も大声を出さない。息までが小さくなる種類の仕事だ。
「反応が出たのは、このラインの下です」
高木が図面に細いペン先を滑らせる。
「今日の目的は“読むこと”。
抽出は、可能な範囲で一度だけ試す。
上限手前で止めます」
喉の奥で言葉を丸めるようなトーン。
南雲は小さく頷いた。
膝をつき、手袋越しに地面へ触れる。
冷たさが皮膚を通り抜け、意識が土の層を下っていく。
腐った木枠、空洞の跡、圧を吸った砂。
さらに下で——硬い粒が束になり、
互いに肩を組むように締まっている。
(……ある。けど、脈が荒い。
線が絡んで、結び目になっている)
「深さはある。境界がつかみにくい。
正直、抽出は難しい」
「読むだけで十分です。
試すとしても一度だけ」
高木は技師たちに手で合図し、距離と位置を再確認する。
手順が一つ進むたび、周囲の空気が一度静まる。
音が減る。
南雲は呼吸を整え、意識を“性質の差”に合わせた。
(“重さ”だけじゃない。硬さ、冷たさ
——周波数みたいな、微かなちがい)
霧の中で濃い粒を探すように、指先の意識を細く絞る。
(来い、じゃない。分かれろ)
土中のどこかに、比重の違う砂が沈む“間”が生まれる。
そこへそっと意識を差し入れる——。
瞬間、脈が軋んだ。
周囲の鉱物が、結び目をさらに固く締めるみたいに抵抗を返す。
負荷計がわずかに跳ねた。
「ストップ」
高木の声が即座に落ちる。
南雲は意識を切り、手を離した。
「……今のは、周りが締まって逆に動かなくなる感じだ。
一本引くと、網ごとついてくる」
地質主任が図面を覗き込み、頷く。
「再結晶で境界が曖昧になっていますからね。
人工物と違って、“接合を外す”という概念が通用しにくいと思います」
淡々とした説明に、積年の現場の手触りがにじむ。
南雲は肩を回した。重さが骨の奥に残っている。
(“できること”が増えるほど、“触れてはいけない場所”が増える)
「結局、無駄足か」
そう言いながらも、声の芯は軽くはなかった。
「いいえ。“できない理由”が分かったのは成果です」
高木は短く言葉を置く。
「ここは構造を崩さずに抜くのが難しい。
だから、次は成分そのものを選ぶ訓練を優先しましょう。
複合材の中から、似た性質同士を見分けて拾う。
線ではなく“点”で向き合うやり方です」
「点、ね」
南雲は旧坑の鉄扉を見た。
誰も近づけない場所の向こう側に、まだ使われていない鉱石が眠っている。
(俺がこれを“拾える”ようになったら——誰が得をして、誰がいらなくなる?)
視界の隅に、働く人たちの手。
油の匂い、古い機械の音。
想像が広がる前に、彼は自分で踏みとどまった。
(考えるのは、まだ早い)
撤収の手順は静かに、しかし異様に丁寧だった。
測定器の電源が一台ずつ落ちるたび、山の音が戻ってくる。
風、枝、遠い鳥。
安藤が記録端末を閉じる。
「本日の結果は“反応あり・抽出不可”。
大臣には即時報告。
以降の工程は、高木さんの提案で“成分選択訓練”に切り替えます」
「了解。俺は、やれる範囲でやる」
南雲が答えると、高木はわずかに口角を上げた。
その笑みは一瞬で、すぐに“任務の表情”に戻る。
「戻ったら、サンプルを用意します。
金属粉入り樹脂、三成分混合の耐熱材、レアメタルを含む基材。
境界の線を見ない練習から」
「結局、仕事は減らないな」
「減りません。でも、方向は選べます」
高木は少しだけ歩調を落として、南雲の横に並んだ。
手袋の外側にうっすらと白い息が触れる。
二人の間の距離はいつも通りだが、沈黙は昨日よりやわらかい。
林道を戻る途中、南雲はふと、足を止めた。
(頭の奥——ざらつきはもうない。ただ、輪郭だけが残っている)
不快ではない。
“ここから先は、別の道具がいる”と、身体が覚えた輪郭。
「今日は、ここまで」
高木が言う。
「安全を最優先に。“できないと分かること”も、あなたの任務です」
その言葉は、冷えた空気の中で、焚き火の火種みたいに残った。
車に戻るとき、山風が白い息をほどいた。
世界は静かだ。数字もニュースも、今日のことを何も知らない。
(それでいい。今は、まだ)
南雲は胸の奥で、固く、しかし小さな決意を握り直した。
“線”ではなく“点”を見る訓練へ。
触れてはいけない場所と、触れてよい一点を、確かに見分けるために。
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