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第34話 冬の入り口で ー 完全休養のはずが

 札幌郊外の小さな登山道は、

晩秋の冷たい空気に満ちていた。


葉の落ちた枝の隙間から差し込む弱い陽光が、

地面に積もった落ち葉を淡く照らしている。

昨日の緊張がまだ体の奥に残っているせいか、

森の静けさがやけに心地よかった。


「……本当に、ただ歩くだけでいいのか?」


南雲が白い息を吐きながら尋ねる。


高木はマフラーを整え、うんと頷いた。


「はい。

都市の刺激が少ない場所のほうが脳の回復が早いと思いますよ。

今日は完全休養です」


昨日、現場であれほど取り乱した人と同じ人物には見えないほど静かだった。

ただ、ときどき南雲の横顔を確認するように視線を向ける。

そのたびに、微かな緊張が滲む。


落ち葉を踏みしめるたび、乾いた音がする。

少し冷たい風が頬を刺すが、不思議と心は落ち着いた。


「空気……うまいな」


南雲が深呼吸すると、高木も小さく吸い込み、柔らかく表情を緩めた。

しばらく歩いた後、ふと高木が口を開く。


「南雲さん、趣味って何かありますか?」


「ああ。ダイビングだな。沖縄だからね。

あれはもう、入らないほうが不自然ってくらい、みんな潜ってたよ。

海の中って……音が丸いんだ。世界がゆっくりになる感じでさ」


南雲は言葉を探るように、遠くを見た。


「波も、小魚の動きも……静かなんだよ。あれが好きだったな」


高木は、手袋の上からそっと指を握った。


「分かる気がします。……音が少ない場所って、安心しますよね」


その言い方が気になった。

まるで彼女自身が“音を扱う人”のような――


「高木さんは? 何か好きな音があるのかな?」


一瞬、彼女の動きが止まった。

それから、ほんの少し恥ずかしそうに視線を伏せる。


「……クラシックギター、なんです。趣味で弾いていて」


「ギター?」


南雲は意外そうに振り返る。


「はい。同じ音でもつま弾き方で全然違う響きになるんです。

演奏ってギターと対話しているみたいで。

それが……好きなんです」


その説明は何か納得がいき、

まるでギターの音がそこにあるかのように感じられた。


「へえ、今度聴かせてよ」


「上手になったらお聴かせします」


そのとき遠くの森の奥から、重い建機の音がわずかに響いた。

南雲は何となく地面に視線を落とし――ふと、胸の奥がざわりと震えた。


(……なんだ、これ)


足元の土。

その下に、何かが“ある”。

音ではない。温度でもない。

ただ――圧。

そこに“存在する何か”の塊が、こちらへ触れてくるような感覚。


南雲は無意識にしゃがみ込み、手を地面に近づけた。

その瞬間、

――呼吸が止まった。


ほんの刹那だったが、

胸の奥がつかまれたように動かなくなり、

世界が一枚の布のように静止した。


「南雲さん!?」


高木が駆け寄り、膝をつく。

声は驚きに震えていた。


「今……地面の下に何かがあった。

形も分からない。

でも、“ある”って……すぐそこに感じた」


高木は表情を固めた。

その瞳に浮かんだのは――

研究者の冷静とは違う、もっと鋭い“本能の恐れ”だった。


しかし彼女は一瞬で表情を整え、淡々とした声を取り戻す。


「昨日の負荷が残っているのかもしれません。

極度の疲労で、感覚が過敏になっている可能性があります」


(……隠したな)


高木が一瞬だけ怯えたことを、南雲は見逃さなかった。


ゆっくり立ち上がりながら、地面を見つめる。

胸の奥には、まだ微かなざらつきが残っている。


「……気のせいかもしれないけど」


「“感じた”という事実だけ、覚えておいてください」


高木が言う。


「意味づけは後でいいんです。今日は回復を最優先にしましょう」


二人は歩き出した。

森の静けさが戻る中で、遠くの建機音が風に溶けていく。


下山する頃には、空は薄曇りになり、空気がさらに冷え込んでいた。


「……無理しないでくださいね、南雲さん」


高木は静かに言う。

その声は、昨日よりも少しだけ近くて――少しだけ震えていた。


(本当に怖かったんだろうな……)


南雲は胸の奥のざらつきを感じながら歩を進めた。


(あの“ある”って感覚……何だったんだ?

そして――どう広がっていくんだ、これ)


風が吹き抜け、落ち葉がさらさらと道を滑っていく。

その音は、どこかギターの弦を撫でる音に似て聞こえた。


お読みいただきありがとうございました。

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