第28話 境界の先へ ー どこへでも行ける
翌日の午後。
研究室には、いつもと変わらぬ静けさが漂っていたはずだった。
しかし空気の奥にわずかな緊張が混じり、
昨日とは違う密度を帯びているように感じられた。
南雲は机の上で眠る猫に目をやった。
毛布の上で小さく丸くなり、穏やかな呼吸を繰り返している。
(……助かってよかった)
胸の奥を撫でる安堵と同時に、昨日の“生体移動”という現実が、
今になってずっしりと腹に落ちてきていた。
自分が越えた境界が、どれほど危うく、どれほど重大な意味を持つのか。
その思考を見透かしたように、高木が口を開いた。
「南雲さん。今日は“距離”の検証を行います」
南雲はわずかに肩を強張らせた。
「……距離を伸ばすんですか?」
「距離そのものは目的ではありません。
本題は――“空間が安全かどうかを事前に読み取れるか”です」
南雲は思わず息を呑んだ。
「空間の……安全?」
「昨日、あなたは見えない場所の物体を正確に移動させました。
つまり対象の“位置情報”を把握しているということ。
もしそれが空間そのものにも応用できるなら……
あなたは“出現してはいけない場所”を事前に回避できるはずです」
由理の声は穏やかだったが、その裏にある緊張は隠れていなかった。
「まずは感じるだけでいいです。
10km先の空間を、意識してみてください」
南雲はゆっくりと目を閉じた。
(……10km先)
空間が伸びる。
風が遠ざかり、薄い膜のような“軽さ”が触れてくる。
「……軽い。空気が薄いというか……何もない感じです」
「地図では平地ですね。障害物はありません」
高木の確認に、南雲は小さく息を吐いた。
(本当に“感じている”のか……?)
「次は……50km先です」
南雲は再び意識を伸ばした。
すると、空間が途中で“詰まり”、重い粘土のように抵抗してきた。
「……重い、です。なにかが詰まってる感じ」
高木は地図を見て目を見開いた。
「そこ、山の内部です」
ぞくり、と背筋が震えた。
(……やっぱり、感じ取れている)
「では100km先」
意識をさらに遠くへ――
今度は細かい粒がざらざらと肌を撫でるような感覚が返ってきた。
「……ざらついている。硬い粒子みたいなものがいっぱい」
「都市部です。ビルの密度が高いところですね」
南雲は息を飲んだ。
(……人工物の“密度”まで読み取れるということか。)
高木はタブレットを閉じ、南雲の前に立った。
「南雲さん。空間を読めるなら――
次は私と一緒に移動してみましょう」
南雲の胸が一気に跳ね上がった。
「……俺が失敗したら、由理さんを巻き込むことに……」
「大丈夫です。
あなたは空間を正確に把握できている。
そして“成功しているときのあなたの状態”も、私は把握しています」
高木は手を差し出した。
「生体と同時移動の場合は、触れていたほうが領域を読み取りやすいと思います。
……大丈夫。私がそばにいます」
南雲は恐怖で汗ばむ手を伸ばした。
握った手は温かく、確かな重さがあった。
「……行きます」
10km先。
空間は軽い。
風が通り抜けるように澄んでいる。
(……ここだ)
(行く)
視界が揺れ――
次の瞬間、二人は草の匂いを含んだ別の風の中に立っていた。
高木は手を離さず、静かに言った。
「……成功です。脈拍も安定しています」
(本当に……できたんだ)
「次は50km。山の内部は避けてください」
南雲は意識を慎重に伸ばし、安全な“軽い穴”を探した。
(……ここだ)
(行く)
揺れ、そして着地。
この距離でも、ほとんど負荷を感じなかった。
高木はほんのわずか微笑んだ。
「……完璧です」
胸の奥に静かな熱が灯った。
もはや“距離”が障害ではない。
(……どこへでも行ける)
◆
研究室に戻ると、高木はデータを整理しながら言った。
「今日の結果はすぐ本部へ送ります。
大臣に届くのは夕方でしょうね」
(……何かが動く)
その予感は、確信に近かった。
猫の寝息だけが、静かな部屋にやわらかく響いていた。
その夕方。
大学に戻ると、高木がスマホを握りしめて待っていた。
「南雲さん……大臣からです。
“至急来てほしい”と」
胸が跳ねる。
「……来たか」
高木は静かに頷いた。
「同伴移動のデータが、大臣に届いたようです。
……行きましょう。これは、あなたの次の段階です」
南雲は深く息を吸い、覚悟を固めた。
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