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第27話 境界を越える ー 自分自身の移動

 その日の午後、研究室には曇り空の光がうっすら差し込み、

蛍光灯の白い明かりだけが機材の金属面に反射していた。


南雲誠は、毛布にくるまれた猫をそっと机の上に寝かせた。


「……大丈夫かな」


猫の呼吸は弱々しく浅い。

小さな体がたまにぴくりと震え、痛みをごまかすように丸くなっている。


高木は応急処置キットを開き、専門家のように丁寧に猫の足を触診した。


「骨折ではなさそうです。

たぶん捻挫か打撲……でも、このまま放っておいたら危なかったでしょうね」


南雲は胸を撫で下ろす。


(……助けられてよかった)


だがそれと同時に、胸の奥には

“別の重み”が生まれていた。


――生体を動かせた。

――生き物を壊さずに、移動させられた。


それは物質移動とは明らかに違う。

一線を越えた感触が、南雲の心臓を静かに締めつけた。


高木は処置を終えると、南雲の方へ向き直る。


「南雲さん。

生き物を移動させたということは……

あなたの能力が“ひとつの境界”を越えたということです」


「境界……?」


「はい。

生体は単純な物体ではありません。

内部の化学反応も、体内の流体も、呼吸のリズムも絶えず変化しています。

それを“壊さずに”移動させたという事実は――」


高木は慎重に言葉を選びながら続けた。


「対象の“状態”を保持したまま移動できる……

そういう段階に入っているということです」


南雲の喉が鳴る。


「……つまり、扱い方を誤れば……?」


「はい。命に関わることもあります。

だからこそ、今日からはより慎重に進める必要があるんです」


彼女の声は真剣で、揺らぎがなかった。

高木は毛布ごと猫を持ち上げ、床にそっと置いた。


「まずは、猫と毛布をまとめて“ひとつのまとまり”として移動させてください。

状態を変えずに」


南雲は猫を見つめ、息を整えた。

弱い呼吸、震える体、毛布の柔らかい触感――

それら全体が、意識の中で“ひとつの塊”の輪郭として浮かび上がる。


(……ここだ)

(来い)


風も音もなく、ただ結果だけが変わる――

猫は毛布ごと机の上に現れた。


高木が息を呑む。


「……位置も姿勢も崩れていません。

完全に“まとまり”として移動できています」


猫は驚く素振りも見せず、そのまま丸くなっている。

南雲は胸を撫で下ろした。


(……よかった)


だが高木は次の言葉を静かに放つ。


「では次に――“あなた自身”を移動させてください」


その言葉に、南雲の胸が一瞬強く締めつけられた。


「え、俺……ですか?」


「はい。

生体移動の検証には、あなた自身の移動が必要です。

ただし距離は一メートル以内で」


南雲の背筋に冷たいものが走る。


(……自分を移動させる?)

(……もし、出現位置を誤ったら……?

壁の中に出たら……?)


頭の片隅に、映画で見た“裸になった移動場面”がよぎる。


「怖いですか?」


由理はそんな南雲の表情を読み取り、静かに言う。


「……いや、ターミネーターでさ……」


「大丈夫です。

裸になったりはしません」


「……ですよね?」


「猫の毛布も一緒に移動できているでしょう?

あなたの服だけ残る理屈はありません。

それに――」


由理はタブレットを軽く持ち上げた。


「南雲さんの脈拍と呼吸は、猫を二度成功させた時と“全く同じ”です。

今のあなたは、成功する状態です」


南雲はゆっくり息を吸い込んだ。


(……根拠がある。

由理さんは全部見てきた)


彼女がそばにいるという事実が、恐怖を薄めていく。

南雲は目を閉じた。

自分の体重、足裏の触感、呼吸のリズム――

それらがひとつの“存在の輪郭”として意識に浮かぶ。


(……ここだ)

(移動)


次の瞬間――

視界が一度だけ揺れ、南雲は一メートル先に立っていた。


高木が声を弾ませる。


「……成功です!」


南雲は数秒、動けなかった。

足が震えていた。


(……本当に……できたんだ)


恐怖と安堵が胸の奥で絡まり合う。


高木はそっと近づき、柔らかな声で言う。


「怖かったですよね。

でも、あなたは成功させるべくして成功させたんです」


南雲は小さく頷く。


「……ありがとう。

君がいなかったら、踏み出せなかった」


高木は微笑む。


「では……次の段階に進みましょう」


南雲は息を呑む。


「猫と一緒に……ですか?」


「はい。

あなたと猫を“同時に”移動させます。

これは高難度ですが……避けては通れません」


南雲は猫を抱き上げた。

弱い体温が、腕にじんわりと伝わる。


(……絶対に傷つけない)


南雲は目を閉じた。

自分自身の“輪郭”と、猫の“輪郭”が二重に浮かび上がる。


(……同時に)

(来い)


視界が揺れる。

音も風もない。


次の瞬間――

南雲と猫は、一メートル先に同時に現れた。


高木が大きく息を飲む。


「……成功です!

二つの生体を同時に……!」


南雲の胸に静かな熱が灯った。


(……本当に、ここまで来たんだ)


高木はタブレットを閉じ、深く息をついた。


「南雲さん……

あなたの能力は、またひとつ大きな段階を越えました。

生体移動は、国家レベルの意味を持ちます」


南雲は猫を抱きしめ、静かに頷いた。


(……この力を、間違わずに使うために)


窓の外で、ミズナラの枝が風に揺れた。

まるで森が“次へ進め”と告げているように。


こうして――

生体移動の本格的な検証は、深い領域へ足を踏み入れた。


お読みいただきありがとうございました。

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