第26話 森の片隅で ー 猫
翌日、ミズナラの森は昨日よりもさらに静かだった。
風はほとんど吹かず、枝葉は沈黙を守っている。
まるで森全体が大きな呼吸を止め、何かを待ち受けているかのようだった。
南雲誠と高木由理は、大学裏手の歩道から外れ、さらに奥へと進んでいた。
昨日の出来事――
ごま塩の実験、範囲指定、どんぐりの山、SNS投稿、そして海外からのアクセス。
“外の世界”が静かに動き始めている。
胸の奥に、じわじわとした不安と緊張が積もっていた。
高木が前を向いたまま静かに言う。
「南雲さん、今日は……昨日より奥まで入りましょう。
視界に入る可能性が少しでもある場所は、もう避けるべきです」
南雲は頷いた。
「……ああ。用心しなくちゃね」
足元の落ち葉が乾いた音を立てる。
森が深くなるほど、光は弱まり、木の影が濃く重なっていく。
やがて高木が立ち止まった。
「……ここなら、どこからも見えません」
高く伸びたミズナラが天井のように枝を張り、視界が遮られている。
地面は微妙に窪んでおり、外から見通すことのできない“隠れた空間”だった。
南雲は深く息を吸い込んだ。
(……集中しやすい)
土の匂い、湿った空気、落ち葉の触感。
森そのものが、昨日よりも“近い”と感じた。
高木が言う。
「では、“視界外”の対象……その応用として、まずは森の“場”を感じてみてください。
昨日よりも広く、深く」
南雲は目を閉じた。
意識が、森の奥へと静かに染み込んでいく。
木々の位置、地面の起伏、落ち葉の分布。
それらが“ぼんやりした景色”ではなく、輪郭のはっきりとした“情報”として流れ込む。
高木が小さく息を漏らす。
「……昨日よりも早く集中状態に入っていますね。
意識の広がりが、格段に安定しています」
南雲は目を開け、静かに言った。
「なんとなく……森全体が“ひとつの形”として感じられるんです」
「質的変化が進んでいます。
“探す”能力……位置を捉える力が明らかに強まっている」
そのとき――
南雲は森の奥に、かすかな“揺らぎ”を感じた。
視界には何も映らない。
だが、意識の端で何かが弱く波を打っている。
「……あれ?」
高木が身を寄せる。
「何か感じますか?」
「……少し……行ってみます」
二人はゆっくりと森の奥へ進んだ。
落ち葉の斜面を下り、倒木を越えたその先――
南雲は息を呑んだ。
「……猫?」
小さな灰色の猫が、落ち葉の影でうずくまっていた。
毛並みは乱れ、片足をかばって震えている。
「怪我してる……」
高木が膝をつき、手を伸ばす。
だが猫は力なく身を縮めるだけで、逃げる元気すらない。
南雲の胸が締めつけられた。
(……助けたい)
その思いが、自然と意識の中心へ浮かんだ。
高木が緊張した声で問いかける。
「南雲さん……?」
「……試してみます」
「まさか……“生体”を?」
南雲は真剣な目をした。
「無理ならすぐやめる。
でも……このままじゃ助からない」
弱々しい呼吸、小さな震え、閉じた瞳。
猫の存在が、南雲の意識の中で“ひとつの輪郭”として浮かび上がる。
(……ここだ)
存在の位置を捉える。
色でも形でもない。
もっと根本的な“ここにある”という感覚。
(――来い)
次の瞬間――
猫は南雲の足元に“ふっ”と現れた。
移動の衝撃もなく、ただ結果だけが変わっている。
高木は大きく息を呑んだ。
「……本当に……生体移動……」
南雲は息を詰めたまま、猫を抱き上げた。
その体は驚くほど軽く、弱々しかった。
(……助けられた)
だが同時に、胸の奥に恐ろしい事実も生まれる。
(生き物も……できるんだ)
高木は震える声で言った。
「南雲さん……これは、重大な意味を持ちます。
生き物を“壊さずに”移動させたということは……
あなたの能力が、生体の状態を保ったまま扱える段階に達したということになります」
南雲は猫を抱きかかえ、静かに頷いた。
「……研究室に戻りましょう。このままじゃ危ない」
高木も頷く。
「ええ。応急処置をして、状態を観察しなければ」
二人は来た道を戻り始めた。
猫は南雲の腕の中で、小さく呼吸をしている。
森の出口が近づく。
(……絶対に助ける。
そして、この力を正しく使っていく……)
南雲の心に、静かだがはっきりとした誓いが芽生えた。
高木は歩きながら静かに言った。
「……南雲さん。
あなたが怖れを忘れない限り、私は必ずあなたを支えます」
その声は揺らぎなく、温かかった。
森を抜ける瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
まるで森が
“次の段階へ進む覚悟を問うている”
かのように。
こうして――
生体移動という、まったく新しい領域の検証が始まった。
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