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第10話 南雲誠(なぐもまこと) ー 別人として生きる選択

 「……南條、入るぞ」


研究棟の静寂を破って、低く落ち着いた声が響いた。

扉がわずかに開き、白い蛍光灯に縁取られた佐伯三佐が姿を現した。


その表情は、上官として見慣れた厳格さでも、部下を気遣う温かさでもなかった。

もっと深く、痛みに満ちた――言葉を探しても届かない種類の顔だ。


「中隊長……」


南條はベッドから身を起こした。


佐伯は何も返さず、無言のまま机の前に進むと、厚めの書類束を静かに置いた。

机の上の白紙が、蛍光灯の光を反射して異様にまぶしい。


「……これは?」


佐伯は短く息を吐き、真正面から南條を見つめた。


「身分変更通知書だ」


淡々と告げられた言葉が、部屋の空気を一段冷たくする。


南條は書類に目を落とす。

中央に、新しい識別コードと――知らない名前があった。


──南雲 誠。


目が止まる。

脳が、その文字列を“自分”として受け入れるのを拒んだ。


「……偽名、ですか」


声がわずかに震えた。


佐伯は一拍置いて、うなずいた。


「形式上は“保護措置”だ。だが実質は……そうだ」


その”実質”が何を意味するのか、言葉にしなくても南條には分かった。


国家が、お前を隠す。

守るためか、囲い込むためか――その両方だ。


佐伯は視線を伏せ、机の端を指先で軽く叩いた。

その仕草は、迷いを押し込むようだった。


「……南條。国内外で妙な噂が出始めている。

“未知の光”“新兵器の影”……どれも根拠はない。

だが、お前の名前が出れば――」


家族。

仲間。

三浦。

基地のみんな。


誰かが、危険に晒される。

その想像だけで喉が焼けるように乾いた。


佐伯は続けた。


「何より……俺は、お前を守りきれん。

隊の範囲を越えた問題になっている」


苦渋が滲む声。

上官としての自負ではなく、一人の“人間”としての弱さをさらけ出した声だった。


南條は唇を噛む。


「……俺は、もう戻れないんですか。

元の生活に」


その問いは、恐怖でも怒りでもなく――祈りに近かった。


佐伯は目を閉じ、ゆっくりと言った。


「戻れる。

だが、それは“すべてが終わってから”だ」


“すべて”。


その曖昧な一語が、底知れぬ闇を感じさせた。


南條は息を呑む。


「その……“終わり”って、いつなんですか」


佐伯は答えなかった。

答えられなかった。


「俺も、全部は知らされていない」


そして顔を上げ、まっすぐに南條を見た。


「ただ一つだけ言える。

今のまま南條誠としていれば――

お前は必ず不都合に巻き込まれる」


視界の端で、書類の白が揺れたように見えた。


アイデンティティの死。

自分が“自分”ではなくなる痛み。


南條の指先が、机の縁をわずかに掠める。


「……中隊長は、俺が“おかしい”と思っていますか」


短い沈黙。

すぐに返答が飛んできた。


「思ってない」


揺るぎない声だった。


「南條。

お前は俺の部下だ。

そして――命を懸けて帰ってきた航空自衛官だ。

それ以上でも、それ以下でもない」


胸の奥に熱いものが広がる。

それは涙に近い何かだった。


佐伯は書類の上にペンを置く。


「……この署名は強制しない。

お前自身の意思で書け。

どんな選択でも、俺は責めん」


言葉が喉で詰まった。

南條は深く息を吸い、震える手でペンを握った。

インクの匂いが強烈に感じられる。

そして――ゆっくりと、新しい名前を書いた。


──南雲 誠。


書き終えた瞬間、胸の奥で何かがひっそりと死に、

同時に新しい何かが芽を出したような感覚があった。


佐伯はその文字を見ると、ほんの少しだけ微笑んだ。


「……よく書いたな。これで、お前は正式に保護対象だ」


「……軽く言わないでくださいよ」


自嘲気味に笑うと、佐伯もわずかに唇を緩めた。

だがすぐに真剣な顔へ戻る。


「すぐに北海道へ向かってもらう。

向こうで……お前の身体を詳しく調べるらしい」


“調べる”――その一語が、また胸をざわつかせた。


南條は静かに立ち上がる。


「……中隊長。また会えますか」


佐伯は即答した。


「必ず会える。約束する」


その言葉だけは、軍人でも政治家でもない。

ただのひとりの男の、真実の言葉だった。


南條は深く頭を下げた。

その肩に佐伯の手がそっと置かれる。


「南雲誠。

ここから先は……孤独になるかもしれん。

だが、お前はひとりじゃない。

俺も、三浦も――みんな、お前を待ってる」


胸が締めつけられる。

息がうまくできない。

だが――進むしかない。


こうして、

“南雲誠”としての人生が始まった。


お読みいただきありがとうございました。

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