29話 感情コントロール
リュカ視点です。
「ありがとう」
そう言って笑ったセラフィナの顔が、なぜかずっと頭から離れない。
迷いの消えた、あんなにも晴れやかな笑顔。
さっきまで俯きがちだった女性が、まるで雲の切れ間から差し込む光のようにぱっと明るく笑った。
その瞬間だった。胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
嬉しい。
確かに嬉しいはずなのに、それだけでは説明がつかない何かが、腹の奥からじわじわと湧き上がってくる。落ち着かない。鼓動が妙に早い。頬まで熱を帯びている気がした。
(え、なにこれ……)
戸惑いながら、視線を逸らす。
いつも通りのはずだった。
戦場で何度もやってきたことと同じだ。傷ついた人に声をかけ、励まし、安心させる。恐怖で震える者に寄り添い、落ち着かせ、笑顔を取り戻してもらう。
それは俺の役目で、これまでも何度もやってきた。誰にだって同じように接してきた。
……そのはずだった。
なのに今、胸の奥から込み上げてくるこの感覚は、どうしても今までのどれとも違っている。
うまく言葉に出来ない……ただ、落ち着かない。
誤魔化すように袋を漁る。屋台で買い込んだ甘味の山。その中から瓶に入ったクッキーをいくつか取り出し、そっとセラフィナの手に乗せた。
「それ、帰ってから食べなよ。今日は疲れたろ?…そろそろ帰ろう。家まで送るよ」
笑顔を作るが……上手く笑えていただろうか。
自分でも分からないまま、二人で並んで歩き出す。
夕刻の街は相変わらず賑やかで、屋台の灯りが石畳を温かく照らしていた。セラフィナの後ろ姿を見ながら、取り留めのない話をぽつぽつと続ける。
ふと気づく。頭一つ分ほど下にあるその背中は、思っていたよりずっと小さい。
こんなに小さな体で。ずっと一人で、いつ来るか分からない魔力暴走に怯えながら。
誰にも頼れず、誰にも触れられず、それでも前を向いて生きてきたのか。
どれだけの恐怖を抱えてきたのだろう。
どれだけの感情を押し殺してきたのだろう。
想像すると、胸の奥が静かに重くなる。
……強い人だ。
自然とそう思った。
そんなことを考えているうちに、さっきまで胸を掻き乱していた感情も、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
しばらく歩くと、セラフィナの住んでいるという集合住宅に着いた。
三階建ての建物で、全部で十二部屋。茶色のレンガで作られた外壁はどこか柔らかい雰囲気で、小さな花壇が並んでいる。可愛らしい建物だと思った。
「三階の、一番右端なんだ」
そう言ってセラフィナが指を差す。
「送ってくれてありがとう。……これも嬉しかった」
手にした瓶のクッキーを見つめながら、少しだけ口元を緩める。
その瞬間、心臓がまた大きく跳ねた。胸の奥でどくんと強く鳴る。
「……あぁ。また一緒に行こう」
それだけ言うのが精一杯だった。
セラフィナは小さく頷き、建物の中へと入っていく。階段を上がる足音が遠ざかり、やがて三階の窓に灯りが灯った。
しばらく見上げていると、窓が開く。セラフィナが顔を出し、小さく手を振っていた。
思わずこちらも手を振り返す。窓が閉まり、灯りだけが残るのを確認してから、ようやく踵を返した。
気がつくと、さっきまでいた屋台広場に戻ってきていた。人通りの減ったベンチに腰を下ろす。
額に手を当て、俯いた。まだ顔が熱い。
先程のセラフィナの笑顔が脳裏に浮かぶ。彼女の綺麗な赤い瞳が嬉しそうに細められる度、心が乱れていく。
「……落ち着け……感情を制御しろ……」
戦場で何度も繰り返してきた言葉が、自然と口から零れる。
これまでどんな状況でも感情は制御してきた。恐怖も怒りも焦りも悲しみも、全部押さえ込んで生き延びてきたのに。
それが、こんなにも上手くいかないのは初めてだった。
セラフィナに対して、こんな感情を抱いてはいけない。
知られてはいけない。
人に触れられることを怖がっていた彼女に、こんな――
(今すぐ抱きしめたいなんて……)
思考が止まる。
自分にこんな衝動的な感情があるなんて、今まで一度も考えたことがなかった。
胸の奥が痛む。まるで心臓を抉られているような、奇妙な感覚だった。
深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
(大丈夫……)
感情の制御は得意だ。今までもずっとそうしてきた。
(明日からは、いつも通り出来る)
もう一度、ゆっくり呼吸する。
乱れた心を整えるように、何度も、何度も。
それでも、胸の奥に残った熱だけはどうしても消えなかった。
こっちも気づいてしまった。
お互い、自分の気持ちに気づいてしまったところで1章が終了となりました。
次からは少し閑話のような話が続いてからの2章になります。
よろしくお願いします!




