27 美しい過去よりも温かい今
27 美しい過去よりも温かい今
飯塚春菜
自分の心の中だけの秘密であるのと、それが、秘密でなくなるのとは全然違う。
永遠に片思いをしていたかったなと結構後悔をしました。
社長の言葉に従って、わたし、何をしたかったのかなと。あの日、勇気を出して捕まえた中川さんの口から聞いた話は、笑えない話だった。そして、この恋の難しさについて考えたんです。上司だからとか部下だからと言う以前に、中川さんの心は別の人のもので……。
せめて幸せになってほしいと、自分とどうこうとかでなくてもいいから、幸せになってほしいと、あの夜は、あの瞬間は思った。でも、そんな気持ちは長く続かない。そばにいると、夢を見てしまう。夢を見ることを止められなくなる。
怖いなと思った。理性なんて効かない。
そして、自分の気持ちは本人にバレてしまったらしい。
あの日、あのまま流されてしまいたい自分が確かにいた。でも、中川さんはこの前ボロボロに傷ついていたばっかりだし。もし、ここでこの線を越えたら、わたしは最終的にはこの人を手に入れられないばかりではなく、仕事も失う。そして、永遠に会えなくなるだろう。それが嫌だった。
なんで自分の気持ちをバラしたりしてしまったのだろう。馬鹿だなと。
知られてしまえば距離を取られる。以前のような関係ではいられない。
モヤモヤとしながらそれでも、会社では努めて普通にしていました。中川さんも何もなかったかのように振る舞っていた。一緒に中華を食べてから、1週間と少し経った頃だと思います。仕事が早く終わったので、買い物にでも行って外でご飯を食べようかと思いながら会社のビルを出た。
なぜだろう。なぜか向こうから目に飛び込んできた。
うちの会社のビルの向かいのビルの1階。某大手コーヒーショップのチェーン店が入っている。そこに奏さんがいた。一人でお茶を飲んでました。
その時、頭にかっと血がのぼった。
何も考えずにわたしは向こうに渡り、その店に入った。コーヒーを注文などせず、真っ直ぐに奏さんの席へ向かった。
「わ、びっくりした」
俯いていたのが、パッと両手で口を抑えた。
「何やってんですか?」
「何って」
「中川さんのこと待ってるなら、今すぐ帰って」
自分の声が少しキンとした。周りのお客さんがちょっとびっくりしている気配が伝わってきた。彼女は、時任さんはゆっくりと眉を顰めた。
「なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないわけ?」
「わたしたち、付き合ってるんです。だから今すぐ帰ってよっ」
「ちょっとお客さん」
お店の人に腕を掴まれた。それで、少し正気にかえった。
「すみません」
「お騒ぎになるなら、出てってください」
厳しい顔をされた。
「いや、もう騒ぎませんから」
疑わしい顔をしつつ、店員はホールの隅に一旦下がった。わたしは奏さんの目の前の椅子に座った。奏さんは椅子の背もたれに体を預け、腕を組んでわたしを値踏みするような目で見た。
「本人に言われるならともかく、あなたに言われるのは心外なんだけど」
「……」
「あなたに、わたしと崇くんの何がわかるのよ」
音を立てて椅子を引いて立ち上がると、外へ飛び出した。何が何だかわからないままに自分は駆け出していました。
惨めだった。嘘までついて。でも、わたしは奏さんに勝てない。きっと中川さんはまた奏さんのことで悩むだろう。わたしじゃ勝てない。
好きな人のためにわたしは何もしてあげられない。
づかちゃんが奏さんから逃げ出してから1時間弱経った後
中川崇
出先でもらったものが結構な荷物になってしまってた。会社に置こうと直帰するのをやめて社に向かった。一階で社に上がるエレベーターを待ってると後ろから声をかけられた。
「崇くん」
「え、奏?」
ポカンとした。
「え、お前、何やってんの?こんなとこで」
「崇くん、待ってた」
「はぁ?」
僕を見ながら少し泣きそうになっている女を見る。変わらないなと思う。そして、なんかめんどくさいなと思った。そしてびっくりした。自分がめんどくさいなと思ったことに。
「あ、どっかで座って話そうか」
ちょっと作り笑いをして向かいのカフェに入る。店員がジロジロとこっちを見たような気がした。それから、奏の話にしばらく付き合った。それは、細かいシチュエーションは違えども、昔と変わらない光景だった。司のことを悪くいい、そして、自分は人生をどこかで間違ってしまった気がすると、奏はそういった。
何にも感じなかった。切々と訴える様子を見ても見事なほどに何も感じなかった。
「あのね、奏」
僕は彼女の話を遮った。
「ごめん。もう昔と違うんだよ。俺も今は守らなきゃいけないものがあるしさ、奏のそういう話にも付き合ってあげられない」
「……」
「ごめん」
ここで僕のいう守らなきゃいけないものは、会社だった。人妻とどうのこうのなんてしゃれにならない。でも、奏は勘違いした。
「何それ。さっきの彼女?」
「え?」
「崇くん、本当に春菜ちゃんと付き合ってるの?」
「……」
「彼女がそう言ってるだけじゃないの?」
「それ、あの子が言ってたの?」
奏はしかめ面をした。僕はそんな奏をほっといて立ち上がった。
「ごめん」
「どこ行くの?」
「ちょっと。あ、そうだ。奏」
下から僕を見上げている女に言う。それは何度も何度も僕を攻略した奏の甘えた顔だった。
「そういう話はこれから、カウンセラーに聞いてもらえ。というか、司と一緒に夫婦でカウンセリング受けろ。きっとそれでうまくいくからさ。お前らは」
ポカンとしている奏をおいて外にでた。なぜか司に妙に電話をかけて、たった今起こったことを教えてやりたい気がした。悪趣味な行いだと思いつつ、会社に司の名刺はあったのかなと頭の片隅で思う。
店を出て駅へ急足で向かう。途中で思い出した。さっきの店のコーヒー代を払うのを忘れた。まぁいいか。あのくらいのお金払ってもらうくらいのことはしてきたよなと。足りないくらいだ。
人生の中で確かに仕事は大事です。僕には立場がある。だけど、いつもいつも仕事を優先して自分を後回しにしていると、きっと僕は何かに乗り損う。いつもいつも品行方正で優等生のようなことばかり言っているわけにもいかないじゃないですか。
いつも他人を優先して、自分を前に出すことをしなければ、きっともっと歳をとって自分が一人ぼっちだった時に、僕は後悔するだろう。あの時どうしてって。
そのあの時が今日であるような気がしていた。
***
彼女の部屋に着く。チャイムを押してもしばらく反応がない。よく考えれば家にいるという保証がなかった。しまったな。電話をかけてみるかと携帯を取り出していたら、かちゃりと音がした。顔を上げると、自分の部屋のドアを開けてちょこんと覗いている春菜がいた。
「なんで?」
近寄って顔を見ると目が赤い。
「どうしたの?」
「なんで?」
お互いに質問するばかりで全く進まない。
「あの、お土産買ってきたし、上げてくれませんか?」
僕は手に下げていた紙箱を彼女にわたした。
「なんですか?」
「プリン」
「どこぞの高級店の?」
「そこの駅前のケーキ屋さんの」
ちょっとだけ笑った。自分も釣られて微笑んだ。
「あそこはチーズケーキが美味しいんですよ」
「じゃあ、次はチーズケーキを買う」
「また来るの?」
春菜がポカンとした。
「だめ?」
「……」
「だめかな、また来ちゃ」
僕から目を逸らして下を見て、口の端と端をほんの少しだけあげて微笑んだ。会社でいつもはふざけてばっかでこの子は女の子らしく振る舞おうとしないのだけれど、本当はやっぱり女の子なんだなと思う。そんな可愛らしい笑顔だった。
つい手が伸びた。何も考えてなかった。ただ、そっと春菜を抱きしめた。
春菜は僕の腕の中でおとなしくしていたけれど、しばらくして言った。
「中川さん、プリンが潰れます」
プリンは正確には倒れていた。
家に上げてもらってプリンを食べてる彼女の横で頬杖をつきながら春菜を眺める。
「今日はどうしたんですか?急に」
「会社に寄ったら奏がいて」
「……」
「で、話してたらさ」
「はい」
「なんか君が僕と付き合ってるって言ってたって聞いて」
「……」
「どうしてそんなこと言ったのか気になって」
「奏さん、よかったんですか?」
「ん?」
「おいてきちゃってよかったんですか?」
僕はポカンとしていた奏の様子を思い出した。
「向こうは怒ったかもしれないけど、別に……」
春菜は本当は怒ってはいないのだろうけど、なんだかちょっと怒っているようにも見える顔で一生懸命下を見て一生懸命プリンを食べていた。
「ね、なんでそんなこと言ったの?」
顔を見せてくれないのでちょっと覗き込んだ。春菜はスプーンを止めてちょっと固まった。
「ごめんなさい。嘘ついて」
「いや、怒ってないし。別に」
「……」
お父さんの大事にしている壺を割ってしまったのを隠して責められている子供みたい。春菜はスプーンをテーブルに完全に置いて、プリンを食べるのをやめた。しばらく黙っていて、そして僕は彼女が話し出すのを待っていた。まるで、そうだな、お父さんみたいに?
「奏さんがまた……」
「うん」
「中川さんにつきまとったら中川さんが傷つくと思って、そしたら止められなくて」
そして春菜は泣いてしまった。
僕が本当に彼女を好きになったのは、きっとこの瞬間だった。
春菜が僕のために泣いてくれたこの時。
「ごめんなさい。余計なことして」
「いや……」
僕を大切にしてくれる人は、本当はちゃんといた。昔だっていたし、今だっている。でも、人は運が悪いとそれに気がつかないで人生を過ごしていってしまうのだと思う。
春菜は両手で顔を覆って泣いている。僕は自分もちょっとだけ泣きそうになりました。
「ごめんなさい」
「泣かないで」
隣で泣いている女の子の方に手を伸ばして、もう一度春菜を抱きしめた。そして彼女の髪を撫でた。
「春菜が泣くことなんて何もないんだから」
泣いている彼女を腕の中に抱きながら、僕はこの数週間のことを思い出していた。
あの日、僕が無茶苦茶に落ち込んでいた時、春菜は言った。
奏さんのそれは愛じゃない。
あの時、この子の口から出た言葉がおまじないのように僕を守ったのだと思う。やっと奏から自由になれた。
思い出すたびに僕を陶然とさせた美しい思い出。僕たちが出会ったあの放課後の教室。がらんとした空間に響いた奏の声。かけがえのない僕の青春は一瞬にして色褪せてしまった。まるで金属が空気に触れて錆びるようにガラクタになってしまった。
胸が痛まないわけでもない。
でも、いいか。
それでもいい。
美しい過去よりも、温かい今がいい。
僕の腕の中で春菜は泣き止んだ。彼女の髪にそっと頬を寄せて何度も髪を撫でると、自分の腕を回して僕に抱きついてきた。
「中川さん、なんでこんなとこでこんなことしてんですか?」
「なんでだろ?」
「意味もわからずこんなことしてんなら離してくださいよ」
相変わらず僕に抱きついているくせにそんなこと言い出した。抱きしめたままで笑った。
「やだ。離したくない」
好きな人と手を繋ぎたい。抱きしめたい。抱きしめて朝まで眠りたい。
なんて長い間自分はそういう、この世の中で普通の幸せな人たちが持っている普通の感情と離れたところで暮らしていたんだろう。
なんて長い間……。
しばらく体を寄せ合って手を繋いでどうでもいいことを話しながら一緒にいた。遅い時間になったので帰るというと、春菜は僕のシャツを引っ張って僕を見上げた。
「帰っちゃうんですか?」
「でも、今日泊まるのはなんかちょっと違うでしょ?」
「この前泊まった家じゃないですか」
「今日は酔ってないし」
不満そうな顔で見上げてる。
「二人とも大人なのに」
「いや、春菜は子供だ」
「ええ?」
「そんな焦ってもったいないと思わない?」
それでもまだ膨れてる。
「なんでそんなに怒ってるの?」
「明日になればこれは全部夢になります」
「え?」
「中川さんはまたつまらない中川さんに戻ります」
つまらないと言われて笑ってしまった。
「戻らないよ」
「いいや、戻ります。この前はどうかしてたとか言います」
僕の傍で僕を見上げている子の髪の毛に触れた。それから、春菜の頬に触れた。かがみ込んでキスをした。柔らかい唇にただ祈るような気持ちでそっと触れました。無理に分けいらないように春菜の様子を見ながらそっと何度も彼女の唇に触れた。
もったいないと思うんです。簡単に何でもかんでも急いでしまうのは、若い子の悪いところでしょう。
「今度こそ帰りますよ」
「……」
さっきまであんなに偉そうにいろいろ言ってたくせに、何も言えなくなって僕のことを見てた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」




