28 甘い毒
28 甘い毒
飯塚春菜
エレベーターで上に上がる。教わっていた階におり、教わっていた部屋番号を探す。見つけた。チャイムを押すと、はーいと奥の方で声がして、こちらへ来る足音がする。
ワクワクした。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
靴を脱いで上がって、リビングのドアを開けて……
……がっかりした。
「何を期待していたの?僕に……」
「ことごとく予想を裏切った」
「どんな予想をしていたの?」
「中川さんは、家で、こうやって、姿勢を正してアイロンかけてるって……」
半泣きになりながら、ジェスチャーまで交えて力説する。
「そんなん、春菜の勝手な想像でしょ?」
「いや。三原ちゃんも言ってた」
「いや、無理……」
「家事のできる人だと思ってた」
「いや、できないわけじゃないよ。極力やらないだけで……」
「もー」
「で、なんで盛んに文句言いながら、人の部屋を片付けているの?」
「わたしは片付いていない部屋は落ち着かないんですっ」
「え……」
マシンガンのように話しながら手も動かしているわたしを自分はテーブルに座りながら眺めつつ、中川さんはびっくりした。
「そういえば、春菜の部屋、綺麗だった……」
「中川さん、綺麗好きな人に見えるのに」
「春菜、家事とかできなさそうに見えるのに」
チーン
「でも、できないにしたって、初めて呼ぶときは頑張るでしょ?」
「いや、最初に無理すると後が辛いし」
「その最初で呆れられたら、元も子もないでしょ?」
「えー」
「もう、こんな人だと思わなかった」
とりあえず床の上にあったものを片付けて、洗濯しなければならないものを洗濯機に入れて回した。それから、窓を開けて掃除機をかける。
「幻滅した?」
「……」
返事をしないで掃除機かけてると座っていたのを立ち上がって近寄るとわたしのことを後ろから抱きしめた。首筋に顔を寄せてくるのがくすぐったい。
「やめて。くすぐったい」
笑ってしまった。……負けた。
その後、彼はテーブルに戻り、例によって例の如くノートパソコンを開いている。わたしは掃除をしたり、洗濯物をほしたり、ベランダに干しっぱなしになっていた服を取り込んで、シャツにアイロンをかけ始めた。
「それもまたないよね。人のこと呼んどいて、仕事?」
「すぐ終わるから」
「何見てるの?」
「んー」
後ろから覗き込んだ。
「明日、行くの。ここ」
「あら、休みなのに」
「ごめんね」
ため息が出た。
「そこは別に知ってますから。想定内です」
「倒産しかかってる民宿をね、買おうかって話があって」
「あ、それ、聞いた。改修してオーベルジュにするんでしょ?」
「従業員ごと引き受けるつもりなんだよ、社長。経営者まで雇うつもり」
「ええ……」
小耳には挟んでいたけれど、そこまで詳しい話は聞いてなかった。
「それはちょっと難しいんじゃ。従業員はいいけど、経営者はさ」
「そうなんだけどね……。でも、ほら、神谷秀はさ」
「ああ……」
社長はなぁ。
「で、その今経営している人たちに会いに行くの。僕達に売りませんかって」
「なるほど」
「春菜もいく?」
「いや、社長に別に声かけられてないし」
「そっか」
それから、またPCを覗いている。
「明日、朝から行くの?」
「9時か10時に来るって」
「じゃ、それまでに帰ります」
「……」
霧吹きでシャツに水をかける。綺麗に伸ばして、アイロンをかける。
「今日、泊まるの?」
「え?」
アイロンを持ったままで振り向いた。
「迷惑なら帰ります」
「いや、そういうわけじゃ」
それから、なんとなく無口になって、わたしはアイロンに集中して、中川さんは仕事に集中した。
「わー、信じられない。家が綺麗になった」
「一体、どんな生活していたの?」
ソファーに並んで、別にどうでもいいテレビを二人で見る。なんでもない時間がたまらなく幸せでした。
「夕飯はなんか食べに行く?」
「んー」
なにか特別なことを一緒にしたいわけでもない。ただ二人でいるだけで、それだけでよかった。
「なんか作って家でのんびり食べたいな」
「誰が作るの?」
「……」
別に自分が料理ができないわけではない。普通程度には作れます。
「中川さんって料理できないの?」
「いつ、僕が料理ができるとみんなに言った?」
「いや、だって……」
何度も何度も、目の前で素晴らしい手捌きを見てきました。お客さんの前で、ぼっと炎を上げる様子とかさ。
「この前だって、肉を焼いてました」
「仕事でやらざるを得ないことは覚えたけど、私生活で料理をするのは苦痛です」
「え……」
「苦痛です」
チーン
「え、嘘。春菜って料理できるの?」
「なんでわたしのことをそんな女子力の低い女子だと勝手に思ってるんですか?」
それでも家で食べようと言ってスーパーに連れて行くとそう言われた。
「なんか無茶苦茶嬉しい」
「……」
複雑な気分でした。
「中川さん、家で料理とかチャチャって作って彼女に食べさせてそうなのに」
「そんな事実はないし、一言も言ったことない」
「なに食べたいの?」
「うーん」
ちょっと考える。
「お酒を飲みたいから、何を飲むか決めてから考えよ」
そして、わたしがワインを飲みたいと言ったので、自分達が普段関わってる洋食に傾くことに。
のんびりダラダラと買い物をして、缶ビール飲みながら二人でキッチンに立つ。
「結局、できるんじゃん」
「こんなん料理のうちに入らないでしょ」
この前のあの野菜の色合いが綺麗だったねと、二人でバーニャカウダを作りました。フランスパンを買って、それから、肉も少し焼いた。
「中川さんって少食だよね」
「あのね、春菜さん」
急に改まる。
「前から思ってたし、何度も言ってますが」
「はい」
「20代の時大丈夫だったからって油断してると、人は30代で別人なるから」
「……」
「普段から節制する癖をつけてください」
「……酒が不味くなるな」
ぼそっと言った。
「別にたまにはいいって、飲んでも」
「はぁ」
「でも、太ってほしくないし」
わたしなんて痩せてようが太ってようがたいして可愛くないしなんて、憎まれ口をきくのはやめておいた。
その日の夜、ベッドで向かい合ってる時に聞いてみた。
「わたしが太っちゃったら嫌いになる?」
「好きな人には綺麗でいてほしいなぁ」
勇気を出して聞いてみた。
「わたし、綺麗?」
「綺麗だよ」
「でも、奏さんほどじゃないよね?」
笑われた。
「奏さんほどじゃないよね?」
「台無しだな。春菜」
その後、中川さんの手が伸びてきて、 わたしの髪を優しくすきました。
「その名前、好きじゃないからもう言わないでくれる?」
「え、そうなの?」
「春菜」
抱きしめて耳元でわたしの名前を呼んだ。
「じゃあ、今はわたしの名前が好きなの?」
笑って答えてくれなかった。ただ、その代わりその日中川さんは何度もわたしの名前を呼んだ。いつもみたいに軽く優しく触れながら、それにわたしが答えるのを待っている。それはわたしから答えることがなければ盛り上がらない旋律のようだった。
美しい音楽が静かに始まって少しずつその空間を広げていくみたいに、お互いに触れて相手の吐息の音を聞く。
恋というのは甘い毒のようです。わたしはこの人に本当に長い間、毒を盛られていたなと思う。少しずつ盛られていた毒がわたしの中にずっとあって、きっと今日の日を待っていた。何かが少しずつ違えばきっとこの日を迎えることはなかったんだろうな。
神谷秀の言葉に従って勇気を出さなかったら、そして、あの日、わたしが中川さんに会いにきている奏さんに気づかなければ。
そして、盛られた毒が回って痺れたというかなんというか……。途中から頭の中が真っ白になって何も考えられなくなりました。好きな人が自分の中に入り込んできて、それで腰動かしながら、自分の名前が耳元で囁かれるなんて、これはないなと。
これはない。それに対してなんか全然知らない自分が自分の中から出てきてしまったというか。
かなりのショックを受けてしまった。
いや、明日からわたし、今までと同じ飯塚春菜で生きていけるのだろうか。大袈裟にいえば、改造されてしまったような気さえしたぐらいで。
そして、更にすごーく馬鹿なことを考えた。
こういう時のですね、こういう時の日本語の文法はひっくり返ってるではないかと。ずっと前にちょっと考えたあの件。いいとだめがひっくり返る。ダメと言っているのだが、本当はダメではない。だけど、こういう時だけは、ひっくり返して使っても意味が通じるのだな。
「春菜ちゃん」
「はい」
「なんか、どうかした?」
「いいえ、全く何もどうもしておりません」
「……まさかとは思うけど」
「はい」
「初めてだったわけじゃないよね?」
「まさか」
「ふうん」
中川さんはわたしのすぐ横でわたしの様子を伺っていた。
「想像してたのとちょっと違った」
「想像してたの?」
「……」
ちょっと墓穴を掘りました。
「もっとなんかすごいものを想像してたってこと?」
「いや、そうじゃなくてもっとむしろ」
「むしろ、何?」
「こう、ガムというか」
「ガム?」
意味不明な会話になった。ちょっと修正する。
「こう、中川さんはですね」
「はい」
「クールミントガムのようなイメージで」
「ええっと、はい」
「だから、どこまでいってもそうなんだと思ってた」
「いや、でも、こんなことする時にそんな人いないでしょ」
「いや、そりゃそうですけど」
ちょっと自分も馬鹿だったと思うけどさ。
「じゃ、やだったってこと?」
「いや、やだとは……」
「喜んでるように見えたけど、あれ、演技?」
「……」
そこはノーコメントでお願いします。
「いや、あれはあれで別にいいんですけど、これはこれでショックだというか」
「ん?」
「こう、かっこいいなと思って憧れて見ていたクールミントガムのような学校の先生が」
「うん」
「学校の外で不埒なことをしているのを偶然見てしまったような気分」
「というか不埒なことをされたわけだ」
「はい」
「意味わかんね」
笑われてしまった。
「ああ、社長の言った通りだったな」
崇だって結局普通のすけべな男だと言っていた。
「いや、そりゃないよ」
「え?」
「こんな時に社長って単語出さないで……」
「ん?」
「どんだけ、春菜、社長のこと好きなんだよ」
「え、別に好きとかそういうのじゃないよ」
「なんでこんな二人で裸でベッドの上にいるときに、その存在を思い出させるの?」
「あ……なんかよくわかんないけど、ごめんなさい」
その後、くだらないおしゃべりをするのをやめてくっついて寝た。
***
「じゃあ、社長によろしく」
「いや、春菜がよろしく言ってたって言えないでしょ」
「ああ、そっか」
仕事がある彼を部屋に置いて、エレベーターで下に降りた。
そして、出くわした。
「春菜ちゃんだー」
「なんでこんなところにいるの?」
「……」
休日の格好をした社長と和華ちゃんがエレベーターを降りたところにいた。
飯塚春菜、馬鹿ではないが、天才なわけではありません。
しかし、この時は脳みそがものすごい高速回転した。
「社長こそ、なんで?」
「なんでって、崇のマンションだろ?ここ」
「えっ、嘘」
後ろを振り向いて、エレベーターをとくと見る。迫真の演技だったはず……
「すっごい偶然。ここなんですか?中川さん」
「づかちゃんもここに住んでんの?」
「いいや、友達が……」
「彼氏?」
「……」
咄嗟に言い淀んでしまった。
「いや、友達が……」
「あ、そう」
「じゃ、そういうことで」
「ちょっと待て」
通り過ぎようと思ったら、腕を捕まえられた。
「づかちゃん、今日、暇?」
「え?」
「暇なら付き合いなさい。仕事だ」
そして、エレベーターに乗って上り、さっき出てきたドアの前に立つ。
「なんか忘れ物?」
そう言いながらドアを開けた中川さん。外に並んだ顔を見て、無表情になった。しかし、この人、すごい冷静でした。
「あれ、早いですね」
「和華がな、お兄ちゃんと朝ごはん食べるって言って聞かなくて」
「和華ちゃん、いらっしゃい」
「そしたら下でづかちゃんに会ってびっくりした」
「ああ……」
「なんかお前と同じマンションに友達がいるらしいぞ」
「へぇ。すごい偶然ですね」
淡々とこなして、淡々とみんなを家にあげる。ギリ、セーフだろうか……。
「社長、そんな格好で行くんすか?」
「お前もスーツはやめろ」
「なんでですか?」
「いかにもサラリーマンで偉そうでみたいなさ、やめよ。だから、子連れで行くんだよ」
「なるほど」
「で、づかちゃんは和華の子守りね。今日」
「……はい」
「ちょうどよかったな」
大人たちを追い越して和華ちゃんがたたたと慣れた足取りで奥へ行く。
「あれー」
先にリビングへ入って声を上げた。
「お兄ちゃん、今日はお部屋が綺麗だねぇ」
「あー、そうだね」
「崇、彼女でもできたの?」
一瞬の間が……。
「いや、一念発起して、家を片付けることにしたんすよ」
「ふうん」
「その方が運気が上がるって」
「へぇー」
ギリ、セーフだろうか。和華ちゃんが中川さんの前に手提げのバッグを持って立つ。
「ね、今日、お兄ちゃんのために、お母さんに朝ごはん作ってもらったの」
「ほんと?ありがとう」
中川さん、ちょこんとしゃがみ込んで和華ちゃんと同じ視線で話していた。
「今、温めてあげるね。春菜ちゃん手伝って」
伸ばされた手を取る。和華ちゃんと手を繋いで、キッチンに入った。
中川崇
二人が向こうで料理を温めたり、お皿に移し替えたりしているのを見ながら社長と二人でテーブルに座ってた。
「お前さ」
「はい」
「ちょっと前、づかちゃんに犬みたいって言ったろ」
何の話だろう?
「社長に恋バナの相談するなよって正直思ったけど、ま、づかちゃんはちょっとそこらの子と違って大物だからな」
「恋バナ?」
「まさかお前だったとは……」
この人、普段のほほんとしてるけど、馬鹿ではない。やっぱりバレたか。
「人生長く生きてみるもんだな。あの崇が、まさか、風紀委員長の崇が、部下に手を出すなんて……」
そんなに長く生きてはねえだろと思う。
「いや」
「この状況でまだ言い逃れできると思ってんのかよ。現行犯逮捕みたいなもんじゃねえか」
「……」
「ま、でも、俺も現行犯逮捕されてっから、これでチャラか?」
もっと責められるかと思った。あっさり終わった。
「そんなんでいいんすか?」
「ううん。俺としては別に。どんな問題が起こるんだ?こういうのって、よくわからん」
「はぁ」
「ま、でも、人間らしくていいじゃん。部下だろうがなんだろうが、好きなもんは好きだよな」
人間らしい、か。ま、社長も自分が色々あったんだし、このくらいで何も言える立場ではないか。
「づかちゃんなら、お前に悪い影響は与えないだろうしさ」
「そうすかね」
「あ、だけど……」
不意に口調を変える。
「あの子は、男振る時は、明るくすっきりさっぱりいきそうだな」
「え……」
「今までありがとう。ばっははーい、みたいな」
「いやいやいや」
なんだ、その促音。アラレちゃん*1か?しかも、春菜の雰囲気に妙に合う。明るく男を振る春菜の画像が頭に浮かんでしまった。
「気をつけろ。気をつかえ。じゃないとある日いきなりバッサリだ」
指でさされながら諭された。
「その時、どっちか辞めちゃう?」
はたと考え込む。社長。
「下手すると、お前、辞めんじゃね?それは困るな……。それがこういう時のリスクか……」
「別れる前提で話するのやめてもらえません?」
せっかく幸せになったと思ったのに……。
「できたよ。食べよー」
二人がお皿抱えて出てくる。忠告に従い、手伝うために立ち上がった。
2022.07.06
*1 あられちゃん
Dr.スランプアラレちゃんは、漫画Drスランプを原作とした1981年4月8日から1986年2月19日までフジテレビ系列で水曜日19:00ー19:30に放送されたテレビアニメ、一連のメディアミックス作品。原作鳥山明
あとがき
忘れられない恋とは何か。
自分の中にあるいくつかのテーマのうちの一つに上のようなものがあるなと。
割と、これ、複雑難解な命題なんですよ。あのね、ほんとの意味で忘れられない恋に捕まった人にしか伝わらないと思うんです。今回書いたものも、以前書いたものも。
忘れられない恋。地獄です。
ずっとこの前まである意味私もそういう恋に囚われておりました。
小説を書きながら、自分で自分を牢屋から出したんです。
それからいくらか時間が経って、忘れられない恋に対する新解釈が、これかな……。
奏さんって結局やな女だったんかなとしみじみ考える。
あのねぇ、世の中のいろんな男女をそれなりにフィールドワークのように観察してきました。お酒片手に男女の脇役になってね。恋愛の世界は基本的に弱肉強食。食い合いの世界なんですよ。そんな美しいもんでも、ねえよ。
自分を心から想ってくれる人というのは極上の果物のようなものです。一度味わってしまうと、天国で手に入れた果実のようなもの、手放したくない。相手に辛い思いをさせたって、支配しようと動くのが時に人の心理なのですよ。捕まえる人と捕まる人とに分かれる。
でも、母親や父親を憎むことができないのと同じ原理で、自分が心から愛する人の醜い一面というのはみたくないものです。自分が自分を騙すのですよ。
相手を信じたい自分が自分の心を騙し、既にどうにもならない恋に縛り付けているんです。
自由になるためには相手を撃つのではない。拳銃は自分の胸に向けて撃て。
そして、一度死んで、もう一度生き返ってください。
せっかく生きているんじゃないですか。次の恋をしましょうよ。
そんなことを言っている自分の心の中は、実は空っぽなのですが。
自由とはなんでしょうか。そして、奏さんは本当は悪い人だったのかな?
そんなことはもうどうでもいいんです。
だって過去のことなんだから。
次作でまたお会いできましたら光栄です。
汪海妹
2022年7月10日




