19 あなたしか見えない②
19 あなたしか見えない②
飯塚春菜
「春菜ちゃん」
「ん?」
呼びかけられて横を向くと、三原ちゃんと小松さんがいつのまにか立ってわたしの近くまで来ていて二人並んで心配そうな顔でこっちを見ている。
「なんか、悩みとかあるなら聞くよ」
「え?」
「疲れてる?なんか買ってこようか?この前の鯛焼きとか」
「いや、別に。大丈夫ですよ。このくらい」
三原ちゃんと小松さんに交互に労られる。
「なんか……」
「うん」
「さっきの電話聞いちゃったんだけど」
「ああ、さっきの」
「……」
三原ちゃんがその先を言えずに若干泣きそうな顔でわたしを見ている。
「僕から話すよ」
小松さんがメガネをちょっと掛け直しながらついと前に出る。
「あの、さっきから二人ともどうしたの?」
「さっきの電話はどういったお知り合い?」
「はい?」
「もう、長い付き合いなの?」
ミゲール……
「いや、最近知り合ったばかりですが」
「悪いことは言わない。すぐ縁を切りなさい」
「え、あ、いや、でも……」
仕事上付き合わなければならない相手です。
「悩みがあるなら僕らが聞くから、そんな怪しい団体とは」
「え、いや、あの」
真剣な目でわたしを見てくる胃弱のおじさんと、その横で両手を重ねてうんうん頷いている三原ちゃん。君たち誤解しています。サーターアンダーギーはドーナッツだし、わたしは別にドーナッツを神様だとは思っておりません……。
「こんにちはー、あ、よかった。春菜ちゃん、いたぁ」
不意に明るい声がして、会話が中断された。
「あ、実花さん」
「もしかしていないかなと思いつつ、配達の途中で寄ったんだけど、よかったよかった」
実花さんは作業用の緑色のエプロンをつけたままでスタスタと会社に入ってくる。手に小さなテーブル用のお花を持っていた。フォンテーヌがお店に飾るお花をお願いしているフローリストの方です。
「これ、今度のウェディングの時にお客さんのテーブルに飾るお花の見本。気に入らないところあったら変えるから、主催者の方に確認してね」
「わぁ、かわいい」
三原ちゃんが喜ぶ。
「あ、サンプルのお代……」
「いいよ。いいよ。このくらい。いつもたくさんご注文いただいていますから」
わたしがそういうと、明るく笑って手を振った。実花さんの顔を見ながら思い出した。
「そうそう。手品用の花ビラも用意しないといけないんです」
「花びら?」
「こう、何もないところにハンカチ被せた後にパァッと花びらを散らす」
「ああ、フラワーシャワー」
「マジシャンの方から花の指定を受けていて」
「うん」
「ええっと……」
なんだっけ?忘れたぞ。
「ブー……」
「ブー?」
「ブービンゲリラ」
ギャハハハハと笑われた。
「違う?」
「それは、どこぞの奥地のゲリラ部隊の名前だね。それをいうなら、ビーゲンブリラ」
「実花さん、ブーゲンビリラです」
微妙な間違いを聞くと、脳が誤作動を起こすものである。花屋が間違え、三原ちゃんがツッコむ。
「いや、ブーゲンビリアだから」
「あ……」
まさかの三原も間違えた。小松に訂正された。三人とも女子力ダメージを受け、髪の薄い胃弱の小松おじの勝利である。
「え?ブーゲンビリアだっけ?」
実花さんが眉を顰めながら微妙な顔をする。両手で頬を押さえて深刻な顔になる。
「なんで?さっきまで普通に覚えていたはずなのに」
「実花さん、ごめんなさい。わたしが変な間違えをしたせいで……」
「ブーゲンビリア、ブーゲンビリア」
正しい記憶をもう一度上書きするためにぶつぶつと呟き出した。
「情熱、あなたしか見えない」
「なんですか?急に」
「花言葉よ」
「へー」
あなたしか見えない……
「いや、偶然だけどマッチしたな」
「どゆこと?」
「ご新郎さん、あなたしか見えないって感じですよ」
「へー」
「あ、それと、マジシャンの方からはブーゲンビリラを入れて、それ以外にも花を足してって……」
「春菜ちゃん、ビリアだから」
「あ、すみません。ブーゲンビリア、ブーゲンビリア……」
まるで、英単語の暗記である。
「そうねぇ、ブーゲンビリアと合う花ねぇ。香りがきちんとついているのじゃないと。やっぱり薔薇かしらね」
「香りがついてないとだめなんですか?」
「フラワーシャワーは、魔除けの意味があるのよ。香りで邪気をはらうの」
「へー」
「ブーゲンビリアを白にして、赤い薔薇とピンクの薔薇でどうかしら?比率を少し変えて白を多めにすると爽やかかな」
「あ、それで、お願いします」
実花さんはにっこり笑った。
「赤い薔薇はあなたを愛しています」
あなたしか見えない
あなたを愛しています
「あー、いいなぁ。赤い薔薇が欲しい」
三原ちゃんが声を上げる。
「好きな人から赤い薔薇贈られたいなぁ」
「花言葉なんてわかってて買ってる人少ないんじゃない?」
わたしがそう言っても、三原ちゃんはうっとりとした顔を緩めない。
「直接言われるのもいいけど、花で伝えられるのもいいなぁ」
好きな人が赤い薔薇の花束を持って帰ってきて、花を渡しながらあなたを愛していますと言ってくれたら……。
「ただいま、戻りました。あ、いらっしゃい」
「どうも、お邪魔してます」
そんな想像をしていたら、中川さんが帰ってきた。
「あ、これ、今度のウェディングにどうかと思って。中川さん、どうですか?」
「うーん」
花を手に持って考え込む。
「よくわかんない」
「ええ?」
「花って言うのは女の人が喜べばいいんじゃないの?だから男に聞くのは間違いでしょ」
そう言って、実花さんに笑いながらお花を返した。
「じゃあ、彼女さんに聞いてくださいよ」
実花さんは花を押し戻す。中川さんはまた笑った。
「そういうの、やめて」
「え、なんでですか?」
「寂しい独り身なんです。わざわざ言わせないでよ」
「え、中川さん、彼女いないんですか?」
実花さん、声のトーンが少し変わったな。それに、中川さんに彼女いないの最初っから知っててこんな話してる。だって、わたし、聞かれたことあるもの。
実花さんと中川さんはそんなに歳が変わらない。大人の男の人と女の人。中川さんにその気があるかどうかわからないけど、そうなったらお似合いかもな。わたしなんかとよりもっとお似合いだ。
まだ話している二人を置いておいて、そっと自分の席に戻ろうとすると、実花さんに声をかけられた。
「春菜ちゃん、お花」
「あ、はい、すみません」
サンプルの花を受け取った。
「お客さんに見せてご意見確認してくださいね」
「はい」
お花をデスクにおいて、PCのメールをチェックした。わたしがその場を離れると、二人がまだ何かおしゃべりしているのが聞こえてきた。実花さんの嬉しそうな声と、中川さんの少しくつろいだ声。わたしと話している時は、上司の話し方。でも、実花さんと話すときはちょっと違うな。
もしも、好きな人が赤い薔薇の花を持って自分の家に来てくれたら……
中川さんが薔薇の花を持っている様子を思い浮かべてみた。それは本当に幸せな光景でした。他の人に持たしてみても何も感じないのに。
でも、この人は遠いなと。近くにいるけど遠いなと思う。
すぐそばで他の女の人と話している好きな人の背中をそっと伺いながら思う。
まぁくんが寧々ちゃんに恋に落ちたように、わたしが中川さんの目にそういうふうに映る日なんてあるんだろうか?中川さんがわたしに恋に落ちる瞬間。
違和感しかなかった。一体自分のどこをどう取ったら、女の人として見てもらえる?
そして、わたしはもう一度思い浮かべた。チャイムが鳴ってドアを開けたら、笑いながら中川さんが赤い薔薇の花束を持って立っている。それをわたしが笑いながら受け取る。
それは幸せな光景でした。
あなたを愛しています、そんなメッセージを持って好きな人が自分の元に来てくれる。
誰か……、好きな人を探したほうがいいかもな。初めてそんなことを思った。別の好きな人を探したほうがいいかも。
変なものだ。ついこないだまで、彼氏なんかいなくたってピンピンしてたのに。仕事があればなんだか毎日が楽しくて、寂しいって思うような日なんてなかったのに。仕事が好きなのはほんと。もし、わたしが中川さんに好きだって言ったらどうなっちゃうのかな?ごめんなさいと言われて、それで、そのまま今までみたいに自分は仕事を続けられるだろうか。
中川さんを手に入れられないばかりではなく、仕事までも失っちゃう?
それはできないと思う。一気に二つも失って生きてなんていけない。仕事は失いたくない。
すると、いつか、中川さんが人のものになるのをそばで何もできずに見送るわけか……。
あなたを愛しています
男の人の愛を勝ち取る女の人というのは、何が違うのだろうな。やっぱり美貌なんだろうか。
わたしにしては低めのテンションで仕事を終えて家に帰った。最寄駅で降りて駅前の商店街をぶらぶらしながら売れ残りのお惣菜を見ていたら電話がなった。取り出して画面を見て、ぱっと灯がつくように自分の心が明るくなった。
ただの用事だろうに、それでも電話が来ると嬉しい。
「はい」
「今、どこ?」
「家の近くのお惣菜屋さんです」
「そのお惣菜はもう買ったの?」
「いいえ」
「じゃあ、確かづかちゃんちの近くにファミレスあったよね。そこにいて」
「なんでですか?」
「ちょっとね」
「明日ではダメなことですか?」
「今日の方がいいかな」
一拍置いて彼の声がする。
「だめ?」
ダメな訳がない。わたしは1分でも1秒でも多く、あなたに会いたいんです。
「大丈夫です。待ってます」
ファミレスについて隅っこの席に案内される。中川さんが来るまでの間メニューを1枚目から順に眺める。全部見る。値段と写真と謳い文句。疲れた上半身を行儀悪くベタッとテーブルに乗せて一枚一枚捲る。
「何やってんの?」
後ろから声をかけられる。
「あ」
「さっきからしばらく見てたけど。何度も前に戻って延々とメニュー、端から端まで見て」
「暇な人ですね」
「いや、暇なのはそっちでしょ。ちなみに僕は暇ではありません」
それは知っている。目の前にすとんと中川さんが座った。
「ね、なんでさっさと注文しないの?」
「勉強です」
「勉強?」
「どんなメニューがあって、どれが定番でどれが新商品なのかなと」
「ああ……」
納得した。
「ちょっとは休みなよ」
「職業病みたいなもんですよ」
反抗期の子供みたいにテーブルにのさばっていたが、上半身を起こして普通に座り直した。
「ご飯食べてないんでしょ。頼みなよ」
「うーん」
「ダイエットか」
「わたしがダイエットしているの、見たことあります?」
「ない」
「じゃあ、これ」
ドリアにした。
「中川さんは?」
メニューを渡した。
「うーん」
「ダイエットか」
「……いや、咄嗟に食べたいものが出てこないだけだよ」
「じゃあ、これにしなさい。これ」
「勝手に決めるなよ」
「新商品なんですよ」
「ああ……」
マグロ唐揚げ定食
「いや、無理。揚げ物の気分じゃない」
「ちゃんと大根おろしのってるじゃないですか」
「君が食べなさい」
「えー」
新商品のチェックは諦めた。中川さんは冷やし中華を頼んだ。
「邪道メニューじゃないですか。ファミレスで中華」
「邪道がどう扱われているかの研究です」
いや、単に疲れてるからさっぱりしたものが食べたかっただけだと思う。注文をした後に頬杖をついたまま上司がじろじろとこっちを見てくる。
「なんですか?顔になんかついてます?」
「見たところいつもと変わんないと思うんだけど、なんか悩んでいることとかあるの?」
「はい?」
唐突に何を言う。でも、聞かれたから目を瞑って考える。恋の悩み、これは言ってもしょうがない。ええっとそれ以外。田舎のお父さんとお母さんと弟と……。そこまで深刻な問題はないな。
「敢えて言うなら、隣の部屋の大学生が大音量で夜中に音楽をかけることがあって……」
「管理人さんに言いなさい」
「はい」
手帳を取り出してメモする。あ、いや、メモするほどの内容ではなかったか。つい、癖で。
「他にはないの?」
「えー」
もう一度考える。恋の悩み、これはこの人に言ってもしょうがない。ええっと……
「たまーに」
「うん」
「たまーに、ですよ。夜中に足がつるんです」
「……」
「なんか、栄養素が足りないからなんですかね?あるいは疲れてるからとか?夢うつつの時に足が攣るとすっごい辛いんですよ。すっごい」
「……そんな」
「はい」
「そんなことでしか悩んでないのか、君は」
「……」
悩みがないのは人から責められるようなことなんでしょうか。しかも、上司から。
「すみません、能天気というかなんというか」
「でも、小松さんと三原ちゃんは、づかちゃんがなんか新興宗教のようなものに入信したって言ってたぞ」
「あ……」
やっと繋がった。この意味不明な訪問。
「サーターアンダーギー教」
「なんだそりゃ、サーターアンダーギーは神様じゃないぞ」
「そんなん知ってますよ」
「お待たせしました」
ドリアが来た。
「それで、なんだ、そのサーターアンダーギー教ってのは」
「お腹空いてるんで先に食べていいですか」
わたしだって好きで入信した訳じゃないぞ。やれやれ。それで、ドリアのエビをほじくりかえしながら、グリーンピースを脇に避けながらかくかくしかじかと訳を説明する。
「知らなかったんですか?中川さん。サーターアンダーギー教のこと」
「報告受けてない」
「でも、報告しようがないですよ。こんな意味不明なこと」
「確かに」
冷やし中華とエビとグリーンピースをほじくり返したドリアを前にして二人で忍び笑いした。
「なんだ心配して損した」
「無駄足でしたね」
「でも、別にいいよ。トラブルが起こったのよりさ」
そう言うと、さっぱりした顔で食事をし始めた。
「そうだ、それ、食べなさい」
「え?」
「グリーンピース」
「いや、パワハラですよ」
「パワハラじゃない」
「嫌いなのに」
ちらりとこっちを見てぷっと笑った。その笑顔を見て心が温かくなりました。
「脚、つらなくなるよ」
「嘘だ」
「身体に悪いものじゃないよ」
「知ってます」
「豆すら食べられない人たちだって広い世界にはいるんだよ」
「……」
そこまで言われて渋々豆を拾う。中川さんはそんなわたしを見ながらやっぱり少し微笑んでいた。
「そういえば今日お昼、実花さん来てたじゃないですか」
「来てたね」
「実花さんとかってどう思います?」
「どう思うって取引先として?」
「いや、女の人として」
そう言うと中川さんははははははと笑った。
「やり手だよね」
「やり手?」
「商売人だよ」
「いや、だから、取引先としてじゃなくて、女の人としてって」
「だからね、取引先に男性がいたらちょっとそういう雰囲気出すじゃない」
「雰囲気?」
「営業だよ。営業」
「え……」
ドリアを食べる手を一瞬止める。
「悲しいかな。ああいうの、男の人は悪い気はしないからね。でも、多分、あっちでもこっちでもやってるよ。今度、社長に対してどんなふうに話してるか見てごらん」
「はぁ」
でも……、わざわざわたしにまで彼女いないのか、実花さん、確認してたけどなぁ。
「もし、冗談じゃなかったら、実花さんとかどうですか?」
「ええ?そんなん聞いてどうすんの?」
「ちょっとした好奇心ですよ」
「ううん」
ちょっと首を傾げて考え込む。そっとその顔をスプーン片手に伺った。
「疲れそうだな」
「……」
「外で頑張って働いている人は、家では落ち着きたいじゃない。だから、しっかり支えてくれる人が必要でしょ。彼女が好きならきっと頑張って支えるんだろうけど、自分も疲れてるからさ。長く続けられないよね。月並みだけど、支えなきゃいけない女の人より支えてくれる女の人がいいな」
「今日、話してて楽しそうだったのに」
「商売してる人は考え方がしっかりしてるから話してて楽しいけど、それとこれとは別なんだよ」
「そういうものですか」
「なんでそんなこと聞くの?」
「好奇心です」
「はぁ、そうですか」
しばらく黙って食事を続ける。
「づかちゃんはどんな男の人が好みなの?」
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「人にばっかり振っといて」
「優しい人」
「それ、女の人全員言うから」
「でも、優しい人は優しい人です」
疲れているのに些細なことでわざわざ来てくれるような優しい人がいい。でも、それは上司としての優しさであって、本当にわたしが欲しい優しさとはまた違うのですが、違ったとしてもそれでもその優しさをひとときでも独占できたのが心地よかった。
「じゃあ、おやすみなさい」
「今日はすみませんでした」
「ああ、気にしないで。こっちの早とちりでした」
そして、中川さんは駅の方へ帰っていった。
その背中が消えるまでずっと眺めていました。好きな人の背中というのは他の人の背中と全然違う。そういうこと、この歳になるまで全然知らなかったな。
あの背中にぎゅうっと思い切り抱きつけたら、どれだけ安心するだろうと思いながら眺めてた。
いつか、誰かのものになる。
自分のものにできなかった男の人が自分の目の前で他の女の人に腕を取られたりしながら幸せそうに笑う姿を、自分は見つめてられるのだろうか。その時わたしは二本の足でちゃんと立ってられるんでしょうか。
わからなかった。