20 長い影
20 長い影
中川崇
奏との縁を切って僕はそのゼミの女の子と付き合いだした。名前を綾子と言いました。あやちゃんと呼んでいた。二人とも就職が決まって、社会人になった。社会人一年目は忙しくて瞬く間に過ぎてった。
その忙しさとあやちゃんがいてくれたおかげで、やっと僕はまともな生活を取り戻しつつありました。両親が海外から帰ってきて、家が急に狭くなったのもその頃。寂しがりやな母親のために兄も僕もとりあえずは親の家に同居してた。
奏のことをやっと思い出にして、普通の穏やかな日々が始まっていた。仕事をし始めたのも大きかったと思う。
そんな時に高校の同級生から電話があった。深夜に近いような時間で自分の部屋にいた。
「崇、久しぶり」
「ああ、久しぶり」
「何やってんの?今」
「ホテルに就職した」
僕は自分の就職先の名前を言った。しばらくお互いの近況を教え合う。その時に教えてもらった。
「お前、相良と結構仲良かったよね?」
「ん?ああ、まぁね」
「結婚するらしいよ」
「え?」
驚いた。
「早いな」
「そうだな」
「誰とって、聞くまでもないか」
「いや、でも、別れると思ってたけどな。まさか結婚するなんて思わなかった」
「なんで?」
「だって、高校の時に付き合い始めて結婚まで行く二人ってそうそうないだろ」
「そうかな」
「それに司だったら、もっと色々選びたい放題じゃん。この年齢で大人しく結婚するなんてな」
「早いな」
「早いな。お金持ちのやることはようわからん」
夜の中で電話越しに軽く笑い合った。
「なぁ、崇」
「ん?」
「お前、相良のこと好きだったよな」
「……」
「それも、結構本気で好きだったよな」
高校時代の奏の面影が浮かび上がりました。あの、昔の奏の様子が。
「昔のことだよ」
「平気か?」
「平気も何も、もう過去のことだからさ」
気のいい友人は、僕のことを思いやって電話をかけてきてくれた。その優しさが沁みました。鈍い痛みもその痛みの横に少し清々しさがあるように感じたくらいです。僕は、大人になろうとしていた。子供の自分を脱ぎ捨てて大人になろうとしてました。
「それに、俺、今、彼女いるし」
「あ、そうなんだ。ていうか、そうだよな。普通」
僕がそういうと、友達の声は軽くなった。それからしばらくまたどうでもいい話をした後に電話を切った。
僕がそんな電話を受けてからまたしばらく経った頃、今度はまた別の人から電話を受けた。
たまたまその日、平日だったけど休みでした。僕は平日に休みの仕事をしているので。やっぱり夜だった。夜の10時ぐらいだった。
その人は、奏でした。
画面に彼女の名前を見たときに、迷った。
出なくても本当はよかったんだと後から思った。思ったけど、それでも僕はその電話に出てしまいました。最後に駅で彼女を見送ってから、一年以上の時間が経っていた。
「奏?」
久しぶりにその名前を呼んだ。奏は受話器の向こうで大きく息を吸ってそれからその息の合間から僕の名前を呼んだ。
「崇くん」
ざわざわとした音が聞こえて、彼女が家の中にいないのが感じ取られた。
「どうしたの?」
「……」
何も言わなくても気配でわかった。奏は泣いている。
「奏?」
「崇くん……」
「うん」
「崇くんに会いたい……」
そう言いながら、声を忍ばして電話越しに泣いている。その気配は一年以上の時間を軽々と飛び越えて僕に奏の感触を思い出させた。自分のものにはならない女の人を腕にだき、彼女の吐息や香りやその柔らかな肌や、それを手にしながら手にできないあの苦しさ。そばにいれば抗うことできずに何度でも彼女をだき、終わった後に思うあの絶望的な感覚。
真っ暗な暗がりの中に再び引き摺り落とされるような、そんな恐怖を覚えた。
この人は、結婚が決まっている人なんだぞと、自分の中のもう一人の自分が言っている。
「奏……」
もう一度希望を持つことなんて僕には絶対にできない。何度も何度も絶望に叩き落とされた僕にはできない。
「ごめん。奏、ごめん」
「……」
奏が電話を切るまで、僕は何も言わずにただ電話越しに自分の泣き声を聴かせる彼女と繋がっていた。ほんのわずかな時間でした。
悲しくてたまらなかった。
会おうと思えば会えるのに、会えない相手というのもこの世には存在している。完璧に忘れてしまうことができれば、苦しむことなんてないのに。でも、忘れられない人というのがこの世には存在している。
せめて、奏、どうして、僕のそばにいてくれないのならどうして、
君の方から僕のことを忘れてくれはしないのか。
どうして結婚が決まってるような時に、僕に電話をかけてくるのか。
綺麗さっぱり僕のことなど忘れてほしいのに。
電話は切れた。永遠に繋がる通話などない。
ほんのわずかな時間の、ほんのわずかな出来事でした。
でも、それは僕を追い詰めた。
***
「なんで、突然?」
母はポカンとして、父と兄はまぁ、お前がそう決めたならと同意する。
「別にすぐ近くに住むなら、一緒に住んだって同じじゃない」
「ま、でも、自立という意味でさ」
「お兄ちゃんはまだ家にいるのに」
「俺も出ようかな」
「ええ?」
「まぁまぁ母さん、落ち着きなさい」
崇くん、崇くんと騒ぐ母親を男三人で苦笑しながら眺める。この時は少し疲れた心が癒された。家を引っ越し、そして、携帯の番号を替えた。落として無くしたとか適当なことを言って、新しい番号をみんなに教えて、古い携帯を解約した。
そこまでして奏から逃げたというわけでもないのだと思います。
奏も知っている家から出て、奏が知っている番号を捨てる。
だからもう二度と奏から僕に連絡は来ない。そういう論理的な状況を作っただけ。たったそれだけのために引っ越ししたり番号を替えたりした。まるでこれじゃあ、DV夫から逃げる妻のようじゃないかとぼんやり自分を嘲笑ったりしながら。
地獄でした。また地獄が再開したと言ってもいいかもしれない。
あの奏が僕を求めて泣く声が耳にこびりついて離れない。
めちゃくちゃになってしまってもいいから、また奏に会いたいと思う自分がいて……。
本当に地獄でした。
正気を保つために、奏が僕にもう一度連絡を取ろうとしても取れない環境を作り上げたんです。そうでなければ、また、僕は待ってしまう。来るはずのない連絡をまた待ってしまう。
そして、手に入るはずのない蜃気楼のようなものを夢見てしまうんです。
奏の横に司がいなくて、その代わりに僕がいるという幻。
奏のその行為は僕の取り戻しかけていた平和な日常をことごとく叩き潰していった。地道に積み上げていたあやちゃんとの関係にも、何も感じられなくなりました。
奏以外の女の人に何も感じられなくなった。そんな自分を偽って、あやちゃんといることにひどい罪悪感を感じて、くたくたに疲れてしまった。
「ごめん。今はちょっと誰かと付き合うというのは無理で、一人に戻りたいんだ」
数ヶ月様子のおかしかった僕を見ていて、ある程度は予想していたのかもしれない。あやちゃんはわりと冷静でした。
「もっと具体的に理由を聞かせてくれないと、納得できない」
「……」
言いづらかった。
「浮気でもしたとか、誰か他に好きな人ができたとか?」
「違う」
僕の様子をしばらく眺めた後に彼女は言った。
「もしかして昔言っていた好きな女の子が原因じゃないよね?」
「……」
「その子とうまくいく事になったの?」
あやちゃんは昔、僕たちが付き合うようになったばかりの時と似たような質問をした。胸が痛みました。
「違う」
「じゃあ、なんで?」
そう言って、泣いてしまった。
「崇くんを幸せにしてくれる人になら負けても構わない。でも、なんでそんなあなたを苦しめてばっかりいる人が好きなの?」
「ごめん」
「こんなに時間をかけても、わたしじゃダメなの?」
「……」
あやちゃんが僕にしてくれたことを思って、何も言えなかった。ただ俯いていました。
「もういい」
泣きながら僕の部屋を出ていった。追えなかった。追っても何もしてあげられない。
でも、ここまでひどい目に遭いながら、自分は奏を憎むことができませんでした。
心の底から憎むことはできなかった。
愛というものはもっと、楽しいというか心地よいというか、清いというか、いいものだとよく知りもしない時は思っていたかもしれない。だけど、僕の愛は、不幸なことに苦しみで構成されている。物理的に考えれば簡単に解決できそうなのに、奏には司がいて、僕にはあやちゃんがいて。奏が僕に電話をかけて話した時間だって数分でしかなくて……。
それなのに、僕の心は完全に囚われていました。
心は、そんな簡単に思うように、動かすことができない。
それからさらに数年経った頃、あれは親戚の法事かなんかで休みをとって父親の田舎にみんなで集まってた日だったと思う。従兄弟たちと本家の座敷で思い思いに飲んで、酔って寝てしまったり先に寝ると引き上げていった人たちに残されて兄弟二人になった。
「なぁ、崇」
「ん?」
「兄ちゃん、崇に謝らなきゃいけないことがある」
「何?唐突に」
兄は酔っ払ってました。とろんとした目で僕を見ていた。
「お前が引っ越したばかりの頃」
「うん」
「家に訪ねてきたぞ」
「……」
「あの子だ。お前のずっと好きだった子。すぐわかった」
「うん」
「たまたま母さんが外出ててよかった。俺が出たからな。それで、お前はいないかと。携帯が繋がらないから直接きましたというんだ」
僕の家の玄関先に佇む奏の姿を思い浮かべた。
「ここにはいないというと、じゃあ、新しい携帯の番号を教えてくださいと」
「うん」
「瞬間、すごく迷ったんだけどな。だけど、なんとなく教えちゃいけない気がしたんだよ。お前が教えたいならとっくの昔に教えてると思ったからな」
「……なんて言って断ったの?」
「本人に聞いて教えていいと言ったら教えるけど、でも、引っ越すこととか番号を教えなかったのには訳があるんじゃないかなと」
「……それで?」
「そうですかと帰っていった」
「……」
「そのことをお前に伝えたほうがいいのかどうか悩んでなぁ」
「……」
「俺がお前に伝えたら、お前はあの子に電話をかけるかもしれない。でも、なんとなくあの子は崇を困らせることはあっても幸せにしてくれる人ではない気がしてな」
奏がそうですかと言って帰っていく映像が、自分で見たわけでもないのに目に浮かんだ。
「でも、後からだんだん、なんかとても大切なことをしなかったような気がしてきて」
「大切なこと?」
「勝手に伝えなかったのは悪かったかなと。連絡を取るか取らないかはやっぱり崇が決めるべきだったかなと」
「……」
結婚する前に二度、奏は僕を訪ねてきていた。
「それで今更なんだけどさ……」
「いや、よかったんだよ。それで」
「本当?」
「うん。よかった」
だけど、その事実はその後長く尾を引いて自分を苛みました。
もしもあの時、奏がないて電話をかけていた時、そして、その後、僕を訪ねてきていた時、僕がもう一度だけ最後に勇気を持てたなら……、希望を持てたなら、もしかしたら今とは違う未来が待っていたのかもしれないと、そんな考えが居座りついてしまった。
最後の最後のあの瞬間に僕がもう一度だけ、奏の手を握ってあげていたら。
幸せな人の人生というのは、真に幸せな人の人生というのは、恋を失わずに生きていく人生ではないだろうか。恋に落ちた一人目の人と死が二人を分つまで添い遂げる。
会えない最愛の人が存在している世界で今日も同じ空を見上げて過ごす。どんなに時を重ねても二度と会うことのできない人が、この世に存在していて、そしてその苦しみは信じられないくらい長く心に尾を引いて消えない。
そんな人がある日突然、まるでなんでもないような顔をして再び僕に会いに来た。




