18 気まぐれな幻
18 気まぐれな幻
中川崇
兄は僕より一足先に就職をしてサラリーマンになった。それから自分も就職活動をするような年になった。そのくらいの時だったと思う。ずっと海外赴任していた親が日本に帰任することになった。母はやっと日本で家族揃って暮らせると喜んでいた。
「もう親と過ごすような年齢でもないんだけどな」
「でてくの?」
とある日、風呂から出るといつの間にか帰ってきてた兄がテレビ見ながら缶ビール飲んでいる。横に座って濡れ髪のまま自分もコップを出して付き合ってるとそんなこと言われた。
「いや、もうちょっと折角だから脛かじろうかな」
「そっか」
「崇は?」
「いや、全然そんなこと考えてない。とりあえず仕事見つけないと」
「まぁ、そうか」
その後、話が途切れて僕は見るともなしにテレビを見ながら、兄がつまみで出してたさきイカをしゃぶってた。
「なぁ、崇」
「なに?」
「この前、見ちゃったんだけど」
「なにを?」
「あの子は俺の記憶違いでなければ、お前の高校生の時好きだった女の子じゃないか?」
「……」
何も言えずに兄の顔を眺めた。
「とうとう彼女になったのか?」
「いや、友達」
兄は真面目な顔をした。
「お前は友達とホテルに行くのかよ」
「……」
そういうところで見られてたのか。
「それともこの前ホテル街から女の子と出てきたのは、弟とよく似た別人だったのかな」
何も言えずにいると、兄はからになったコップにビールを注いで、そして、半分ぐらい残ってる僕のコップに継ぎ足した。
「誤解すんなよ。本当はとうとう叶ったのか、おめでとうって言いたいんだぞ」
「うん」
「ただ、お前、ずっと好きだった子ととうとう付き合えたって割には全然ウキウキした様子ないからさ。そういうことじゃないのかなとなんとなく思ってたわけ」
「……」
「なぁ、崇、どういう話なのかよくわかんないからなんとも言えないんだけど」
「うん」
「自分をあまりすり減らすなよ。待っても無理な人を待ち続けると、心がもたないよ」
それはわかってた。言われなくても。
奏はあれからも、僕を時々呼び出した。主に司が原因で、どうにもならないくらいボロボロになると僕を呼び出すという行動パターンを身につけてしまったようで……。そして、それは悲しいくらい不定期だったんです。不定期、不規則……。
それが、どれだけ僕の精神を苛んだか。
受け身なままに好きな人からの連絡を待つ日々。
そして、そこには必ずいつか僕を選んでくれるんじゃないかという希望があって、その希望はそういう関係になってから時が経てば経つほど、絶望的に擦り切れていくんです。
それなのにそれでも、その相手に会いたいという気持ちを理解できるような人は少ないと思う。
僕は自分の友達や周りの人に奏のことをうまく説明できずにずるずると歳をとりました。本来だったら大学生の頃というのは、きっともっと楽しくて輝いた日々だったはずです。
時々、奏ではない他の女の子と、バイト先とか学校とかで出会って、少しいい感じになるようなこともあって、僕はこの子といたら奏のことを忘れられるんじゃないかと思って、二人ででかけたりとかそういうことをしたことだってありました。
でも、自分の中にある、暗い中で燃え続ける炎のような恋心は、誰かを身代わりにして消すことはできなかった。結局は自分が感じているような痛みとまた少し違うような辛さを、相手の女の子に与えることになるのかもしれないと深い仲になる前に事情を話してそれきりになる、そんな日々を過ごしてた。
ずっと忘れられない女の子がいるんだと。
こういうと、今は会ってなくてでも心の中にいるのだと思われる。
本当はそうではなかった。奏は過去から僕を苛むのではなくて、時々気まぐれに現れる幻のような形で僕を支配していた。
兄にそんなことを言われてから何だか考え込むようになってしまった。このままではいけないなと。いくつも受けた面接のうちの数社が二次、三次と進み忙しい日々を送っていた頃、同じゼミの女の子に食事に行こうと誘われた。なんとなくこの子は僕のことを気に入ってるのかなと前から思っていた相手だった。
特に決まった相手がいないのだったら付き合って欲しいと言われて、僕は奏の話をした。忘れられない子がいるのだと。
「待つよ」
あっさりと言われた。
「それとも、それは婉曲的に断ってるの?」
「いや、そういうわけではないけれど……」
ちょっと困ってしまった。
彼女は僕が困って黙っているのを少し小首を傾げながら見た後にこういった。
「その子にもう一度会ってどうこうという気はあるの?」
「いや……、彼氏のいる子だし」
「彼氏がいたって言ってみたらいいじゃない」
「……」
「それで本当にダメだったら、諦めようって思えるでしょ?時間を無駄にしちゃダメだよ。中川くん。生きてるんだから」
何だか妙にその時納得してしまった。
そうか。せっかく生きているんだから時間を無駄にしちゃダメだなと。
後になってから思った。僕はとても疲れていたんだと思います。だから、自分とは全然タイプの違う彼女の前向きな考え方に妙に惹かれた。自分という人間を一番よく知っているのは自分のはずなのに、自分らしからぬ行動原理に従ってしまう時というのも人間にはたまにあると思う。
僕は珍しく自分から奏を呼び出した。
そして、とあるマクドナルドの二階の席の片隅で、長い時間をかけてずっと好きだった女の子を待ちました。奏が僕を突然呼び出すのは少し遅い時間が多くて、司と喧嘩別れした直後だったり、会うのをすっぽかされた時だったり……。一人で過ごすのがたまらない夜に僕に電話をかけてくる。それが今日は明るい時間に待ち合わせた。
それもまた、僕を普段とはちょっと違う気分にさせていました。
なんだ、こういう明るい光のもとに晒して仕舞えば、そんな大したことなかったんだ。
きっと忘れられる。奏は僕なんかには手の届かない女の子だったんだ。司と比べられちゃな。永遠に叶わない。だから、もう、忘れてしまおう。
「崇くん」
振り向くとそこに奏がいた。学校帰りで大きなカバンを持った奏が。
「久しぶり。どうしたの?珍しいね。崇くんから呼び出すなんて」
「うん」
こんなところではなくて、もう少し何処かいいところにすれば良かったなと突然後悔し始めた。
「ここ、出よっか。時間、ある?」
「あ、ごめん。この後ちょっと用事があって」
なんでもないふうにそう言って奏はマックシェークを一口飲んだ。自分の顔に苦笑いが浮かんだ。鼻の奥が突然ツンとして、僕は少しだけ泣きそうになった。ざわざわとした店内の片隅で僕は泣きそうになったのをごまかすために両手で鼻と口を覆った。
冷たいマックシェークを握ったままで、奏の表情が少し硬くなるのが目の端に映った。
「崇くん、どうしたの?なんか変、今日」
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「ごめん、もう、俺、奏とは会えない」
彼女がすぐそばで息を呑んだ。
「俺の電話番号とか、削除してほしい」
「なんで?突然」
「彼女できたから……」
僕は両手で鼻と口を覆いながら、彼女の方を見ずに前を向いていて、軽く目を瞑っていた。奏はしばらく黙って僕を横から眺めていた。
僕がもっと軽くなんでもないふうに言えば良かったんだ。そしたら、軽く終わる話でした。でも、僕にとって軽い話ではないということは、言葉にしなくたってとうの昔に伝わっていた。
「そっか……」
それだけ言って、そして、奏は黙って前を向いた。僕たちはマクドナルドの壁際のカウンター席に座ってた。窓ガラスに向かって備え付けられたカウンター席にいて、僕も奏も前を向いてお互いの方を見なかった。2階から街を横切っていく大勢の人たちが見えた。奏はマックシェークを飲みながら黙ってそれを見ていて、僕もまたそれを眺めた。
「司とうまくやれよ」
「……うん」
会えなくなるのは嫌だとか、行かないでとか、そんなふうに言って僕の腕を奏が掴んでくれたらいいのにと彼女の隣で思っていた。そして、出会ってから今までの僕たちの時間を思った。最後にもう少し何か言いたかった。ありがとうとか楽しかったとか、元気でねとか、でも、一番言いたかったのはやっぱり、好きだよだったんだと思う。
一度も言えなかった。一緒にいる間に一度も言えなかった。
言ってしまえば、それと一緒に奏には見せたくないような自分の中のドロドロとしたものが溢れ出てしまいそうで、どうしても見せたくなかったんです。自分が惨めだから。
「俺、もう行くね」
奏は僕を見た。奏は泣いていました。胸が痛んだ。
「そういう顔をされると、ちょっと立ち去れないんだけど……」
カバンからハンカチを取り出して顔に当てて声を押し殺して泣き出した。
僕は彼女が泣き止むまで結局そばにいました。奏はそのうち僕の片一方の腕を掴んでそこにしがみついて泣いた。周りから見たら普通の男女の普通の別れに見えたろう。僕が彼女を振るように見えたんだと思う。だけど、実際は違う。付き合ってない男と女に別れはないだろう。
彼女を残して立ち去るのに忍びなくなってしまい、しょうがなく駅まで一緒に歩く。待ち合わせ場所へゆく彼女とは乗る電車が違うので、駅の階段のところで別れる。
「じゃあね」
「崇くんは平気なんだね」
「平気?」
「あっさりバイバイって」
「平気なんかじゃないよ」
「……」
本当にこの子は困った子だなと思う。小さな女の子が膨れるようにしかめ面をしている。
「ねぇ、本当に、もう、会えないの?」
「……」
奏の、その、僕に会いたいという気持ちと、僕の君に会いたいという気持ちは、全然違う。
その重さも質も。
君のその軽さで僕に会い続けるということがどれだけ残酷なことか、いつか君は知る日が来るのだろうか。
「僕の髪にも君の髪にも白髪があって、で、子供や孫の自慢がしたくなった頃に、再会しよう」
「やだ」
最後に少しだけ笑った。僕は彼女がトントンと階段を上がっていく背中を眺めていた。一番上まで行って、曲がる。その時、まだ見送っている僕の方を見て少しだけ笑った。そして、奏は僕に手を振った。僕も彼女に手を振った。
それが、奏を見た最後だった。
この前再会するまでは。




