16 あなたにとって僕って
16 あなたにとって僕って
中川崇
僕達が再会したのは、高校を卒業してから一年以上を過ぎた大学二年生のとある雨の日の週末。夜、当時していたバイトを終えて帰宅するとずぶ濡れの奏が僕の家の前のドアのところにちょこんといた。最初は、見知らぬ女の人だと思った。でも、近寄ってわかった。大人っぽくなっていたけれど、それは奏でした。
「奏?」
驚いて駆け寄って声をかけると、ぼんやりとこっちをみた。素敵な服がびしょ濡れになってしまっていて、髪が濡れてべったりと彼女の顔に張り付き、顔色も最低だった。
「ちょっ、どうしたの?風邪引くよ」
「崇くん……」
青ざめた顔からか細い声が漏れた。
「入って」
僕は何も考えずに大昔彼女を家にあげたように無防備に家のドアをガチャガチャと開けて、そして彼女を中に入れた。
「お風呂、沸かしてあげる。体温めないと、風邪ひくよ」
所在なさげにリビングの片隅に濡れそぼったまま立ち尽くす彼女をほっといて、風呂場で浴槽を洗ってお湯を溜めた。それから、自分の部屋から適当に奏がとりあえず着れそうな服を準備して、風呂場で洗濯したまま使っていない新しいタオルを出した。
「いつからあそこにいたの?」
「よくわかんない」
「なんで?」
「……」
奏の家はここから歩いて帰れるくらい近いんです。おかしい。なぜ自分の家に帰らないのか。
久しぶりにあった奏は、普通ではなかった。僕がそう尋ねると、絶望的な目で僕を見た。たまらなくなって、僕は思わず彼女の濡れた髪をそっと撫でた。
「ま、いいや。まず、お風呂入っておいで」
彼女が風呂場で立てる音を聞きながら、僕はお湯を沸かした。何か温かい飲み物をと思ったんです。紅茶を淹れました。甘くした方がいいような気がして砂糖を入れてかき混ぜた。
しとしとと雨の降る音と気配が、忍び寄ってくる。静かな夜だった。
しばらくすると、僕の部屋着を着た奏が出てきた。相変わらず目はぼんやりとしていたけれど、顔色が戻っていた。それを見てほっとした。ホッとしたついでにぶっと笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
お化粧を落として、洗った髪にタオルを巻いた状態で奏が頬を膨らました。
「いや、こんなダサい奏見たの初めて」
「ひどい」
その時一瞬だけ、昔に戻った気がした。なんの屈託もなくこの家で二人きりでやり取りをしていたあの頃に。
「ほら、お茶飲みなよ」
僕がマグカップを差し出すと、彼女はおとなしく受け取ってそれを飲んだ。その様子をしばらく眺めた後に、部屋の隅に置かれた彼女の荷物を眺めた。ちょっと出かけるというには大きなバッグ。
「旅行行くところだったの?」
僕の質問に伏し目がちだった彼女はぱっちりと目を開いて、そして僕を見た。
「何があったの?」
「……」
話しにくそうにしていた。僕は困ってしまった。でも、少しすると奏は言葉を選びながら話だした。
「司と」
「うん」
「旅行に行く予定だったの。司、免許取ったから車でちょっと遠出しようって」
「泊まりで?」
「うん」
「でも、止めて帰ってきたの?」
「わたしはね」
僕は眉間に皺を寄せた。
「司は?」
「予定通り、旅行に行った」
「一人で?」
「……」
「他にも誰か一緒にいたってことか」
「わたしを」
「うん」
「帰らして、他の女の子を呼び出すんだと思う」
「……」
今度はこっちが黙った。しとしととまだ外で雨が降っている。
「そんなん許していいの?」
「初めてじゃないのよ」
「……」
「初めてじゃないの」
奏は二度同じことをいい、そして、大人びた顔で僕を見た。
いつの間に彼女はこんな大人びた顔をするようになったのだろう。
「それでいいの?奏は」
「よくないけど……」
疲れたような顔で僕から目を逸らすと、そっとお茶のカップを傍らのテーブルに載せて、タオルを解いて濡れた髪をもう一度拭き出した。
「ドライヤー持ってくるね」
そして、何も言えずに僕の傍で髪を乾かす奏の様子をしばらく見ていました。それからポツリと言った。
「別れたら?」
「……」
「別れた……ほうがいいんじゃない?」
彼女は髪を乾かしながら寂しそうに笑って、そして、首を振った。それを見た時に自分の胸はやっぱりどうしようもないくらい痛みました。
「ねぇ、崇くん、本当に申し訳ないんだけど」
「うん」
「今晩、泊めてくれない?」
「……なんで?」
歩いて帰れるうちがあるのにどうしてうちに泊まるのか。そもそもどうして真っ直ぐ家に帰らなかったのか。
「司と旅行に行くって言って出たのに、中止になったって帰ると、お母さん心配するから」
「親、反対してるの?司と付き合うこと」
「反対なんてしてないよ」
嘘だと思いました。そう答える奏の顔を見て。でも、それ以上僕は何も言えなかった。
「だめ?」
そして、甘えた顔で僕を見た。奏のお願いを、僕が断れるはずがなかった。
「ちょっと待ってね」
兄に電話をかけた。
「崇?なんだ?」
「あのさ、ちょっと急なんだけど、今晩家に友達、泊めていい?」
「なに、女の子?」
わざわざ電話したせいで、勘繰らせてしまった。
「彼女か」
「……」
「わかった、わかった、じゃ、俺適当にどっか友達んち行ってやるよ」
そして、兄は余計な気を遣って一方的にそういうと電話を切ってしまった。
「お兄さん、なんて言ってた?」
「ああ、いいよって」
ホッとした顔してる奏に、ちょっと躊躇しながら付け足した。
「今日、帰ってこないって」
「え?」
「兄貴」
「ああ……」
僕にとっては重大事で、でも、奏はケロッとしていた。その顔を見て、自分も気が抜けた。そう。僕と奏はそういう関係だから。だから別に気にする必要はない。
「ベッド使っていいよ。俺、こっちで寝るから」
「まだ、眠くない」
「じゃあ、なんか映画でも見る?」
冷蔵庫にあったものを適当に出してきてつまみにして、ビール飲みながらテレビの深夜番組を見た。どこかの国の映画をやっていて、とてもつまらなかった。だから、自然映画に集中することはなく、僕たちはおしゃべりをした。お互いの大学での話をした。そのうち僕が先に眠くなった。僕は兄の部屋からかけ布団を持ってくると、まだテレビを見ている奏をそのままに部屋の電気を消して、ソファーに寝っ転がる。
「寝るときにテレビ消してね」
で、寝たふりをした。ただ眠かったけど、寝られるはずがなかった。奏が夜、僕の家にいて、そして、二人きりなのに。こんなに近くにいるのに、寝られるはずがなかった。
寝たふりをして先に寝たという既成事実を作るのは、僕の些細なプライドでした。君になんか僕は興味がないですという痩せ我慢だった。
奏はソファーのすぐ近くの床に座ってしばらく黙ってテレビを見ていた。濃厚な夜の中で、青白い光を浴びながら静かにテレビを見ていた。つまらない映画もいよいよクライマックスに差し掛かり、男と女が車のそばで殴り合いの喧嘩をしていた。
その沈黙。深夜に音を抑えてつけられたテレビの音声以外はほとんどの音が聞こえない濃厚な夜の中で、お互いの吐息の音を聞いていた。
「ねぇ、崇くん」
そして、その沈黙を破って奏は僕に話しかけた。
「あなたといるとほっとする」
僕は寝たふりを続けた。
「ねぇ、崇くんって今、彼女いるの?」
「……」
「ちょっと寝てないくせに」
鼻をつままれた。僕は寝たふりを続けられなくなった。
「もう……」
「ねぇ、彼女いるの?」
「いる」
「どんな子?」
「いない」
「どっちよ」
「今はいない」
「本当?」
「うそついてどうすんだよ」
「じゃあ、なんで何もしないの?」
なんとも言えない気分になった。奏は無邪気すぎるなと。俺の気も知らないで。
「そういうつもりで来たわけじゃないよね?」
「そういうつもりで来てたら、どうする?」
ため息が出た。
「別れる気もないくせに。浮気でもしたいの?」
「したいの」
奏は本当に無邪気すぎる。俺の気も知らないで。そういうことをして傷つくのが女の子ばかりだとなんで思っているのだろう。しとしととまだ雨の音がした。
「だって、司は今頃、どっかの他の女の子としてる」
「だから、腹いせに自分も同じことするの?」
「そうしないと……」
突然、奏は悲痛な声を出した。
「そうしないとバランスが取れないんだよ」
「バランス?」
「わたしがこんなに辛いのは、自分ばっかり我慢してるからだと思うの」
その必死な顔を見てなんとなく感じた。きっと彼女は今日、僕の家の前で何時間も待ったのだと思う。その間きっと一心に、僕に抱かれることを思ってた。というか、決めていた。
「ね、崇くん、初めてじゃないの」
「何が?」
「司がまるでみせしめのようにわたし以外の人と浮気するの」
僕はそっとソファーの上に体を起こした。
「奏」
「そのたびにすごい辛い思いするの」
奏はそして涙を流した。
「奏、別れた方がいい」
「でも、司は、わたしと別れたくないし、わたしも……」
どうして、そこまでして司といようとするのだろう。
どうして、俺ではいけないのだろう。
泣いている奏を見ながら、そんなことばかり考えていた。
「でも、辛いの。楽になりたいの」
「ねぇ、でも、そんなことしたって奏は楽になんてならないよ」
「浮気するって言ったって、誰でもいいわけじゃない」
「……」
「崇くんだったら、安心できるから」
もしかしたら自分を選んでくれるかもしれないと……
自分は遥か昔、夢見ていました。
そして、この時も、そう思っていた。本当にそう思っていた。
体を重ねてしまえば、そして、僕が彼女に愛情をかければ。司のような自分勝手な愛情ではなくて、きちんとした思いで奏に愛情をかければ、彼女は僕を選んでくれるんじゃないかと思っていました。本当に。
だって、自分は奏を心の底から愛していた。迷うことなんてなかった。
高校を卒業して大学で彼女ができた。でも、全くのめり込めなかった。一年未満でなんとなく別れた。奏にすとんと落ちたようには、落ちれなかった。他の相手では。
「後悔しない?」
暗い部屋の中で自分の声がまるで他人の声のように聞こえた。そっと手を伸ばして奏の頬に触れた。奏はされるがままになってた。彼女の頬は滑らかでそしてひんやりとしていた。
「冷たい……」
その言葉が合図だったみたいに彼女の方からするりと体を寄せてきた。そっと何かを試すように彼女は僕の唇に彼女の唇でそっと触れた。奏の香りがした。そして柔らかくて甘い感触。それで何も考えられなくなって、ソファーから下りると固い木の床に彼女の柔らかい体を押し倒してキスをした。何度もお互い夢中になって、馬鹿みたいに。
その時、あの教室の片隅で透明な声で歌った奏の様子を思い浮かべていた。一つの汚れもついていない真っ白できれいなあの頃の奏。すぐそばにいたけれど、汚してしまうには勿体無くて、だから指を咥えてみていた。触れたくても触れれなかった人に今覆いかぶさってるんだと、脳みその片隅で壊れたレコードが同じ所をぐるぐる回ってなるようにその事実が繰り返される。
何度も何度もキスをした後に少しだけ冷静になった瞬間があって、僕は少し離れて床の上の奏の瞳を覗き込んでいた。彼女もまた僕を見た。奏の目の中に僕が映っていた。そのまま僕が止まっていると、奏は黙って手を伸ばしてそして僕の頭をそっと押さえて自分の方へ引き寄せた。
奏がまだその気であるのを見てとって、それで、今度はさっきよりもっとゆっくりと彼女の唇にキスをして、そして、自分の指で細い首筋を撫でた。指を滑らせて裸の肩に触れて、そして、服の中に手を差し入れた。少しだけ怯えたような顔をしている奏の顔を暗がりの中に見ながら、そして自分は今どんな顔をしてるのだろうと思いながら。とても怯えていたと思う。いつやめてと彼女が言い出さないかと。でも、彼女は僕を制さず、僕は僕の腕の中で吐息を漏らす奏の声を聞いた。彼女の温もりを重ねている肌で感じて、そして、湿った彼女の中に入り込んだ。僕の動きに合わせて官能的に少し苦しげに目を閉じて眉を曇らせる奏の顔を見てしまった。
見てしまった。
もう、よく覚えていないのだけれど、でも、僕はきっと初めて奏を抱いた時にすでに、しまったと思っていたし、それに、あの虚しさを感じていたと思うんです。愛されたかった。彼女を愛して愛されたかった。だけど、繋がっている体を通して、奏が自分を求めてはいないと感じる。全く求めていないわけではないけれど、でも、僕が求めているようには求めていないと感じてしまう。僕はこんなに愛しているのに。
それがどんなに残酷なことか、それは、経験した人にしかわからないと思う。
こっちに気持ちがなければ平気だと思うんです。別にただ気持ちいいだけ。
でも……、体を重ねることに相手の気持ちを求めれば……。
それは地獄のような行為となる。
それでもやめられない。好きだから。
自分のことを見てほしいと願いながら、虚しく体を動かし続ける。こんな惨めなことがこの世にあるでしょうか。
「司にいうの?」
その後に少したって落ち着いた彼女に聞いた。
「言わない」
「それでなんかこのことに意味ってあるの?奏にとって」
暗い気分でいる僕と違って、奏はどちらかというとこの時すごくホッとしていた。好きなものをお腹いっぱい食べた子供のように。
「もう、司が何をしてもたいていなことは平気な気がする」
「……」
この時だけじゃない。それこそ、高校生の頃から、ずっとずっと昔から、奏は僕の気持ちに気がついていたと思います。僕が心の底から奏が好きだということを。言葉にしたことは一回もなくても。でも、僕には奏の気持ちがちっともわからなかった。高校生の時もこの時も。
好きでもなんでもないならどうして僕のそばにい続けたのか。
なぜ、いつも僕の前で他の男の話をし続けたのか。
なぜ、司という相手ができても、僕のところへ来るのか。
そして、なぜ、僕と寝たのか。
あなたにとって僕って一体なんなんですか?
どうしてこんな簡単な質問を自分ができないのか。




