13 訳ありの客①
13 訳ありの客①
中川崇
とある日、とある女に再会した。
女の方から、というよりは女の男の方からとでもいうのだろうか、自分を探し出して訪ねてきた。出先で用事を済ましていると、部下から電話がかかってきた。
「お客様がいらしていて」
「え?約束なんかしてないけど」
「ええ、ちょっと非常識だなとも思ったんですけど……」
づかちゃんは声を落として僕にそう言った。おそらく近くにその客がいて声が届かないように気を使ったのだろう。
「でも、学生時代からの友人だっておっしゃって」
「誰?」
「時任様」
心臓を氷の手でぎゅっと握られたように思う。一瞬気が遠くなった。
「男?」
「ああ、いや、ご夫妻でいらっしゃってます。どちらも中川さんのご友人だっておっしゃってますけど」
「ああ、うん、そう」
「日を改めていただきますか?」
「……」
逡巡した。正直言えば逃げ出してしまいたかった。でも、そういうわけにもいかないだろう。
「電話を代わってもらえる、その、旦那のほうと」
づかちゃんがわかりましたと言って、しばらくすると電話から明るい男の声がこぼれ出してきた。
「久しぶりだなぁ、崇」
「ああ、久しぶりだな」
その声がいろいろなことを揺さぶって呼び起こした。さまざまなこと。さまざまな。
「どうしたの?突然」
「お前に頼みたいことがあってさ」
「頼みたいこと?」
「ああ、会って話したいんだけど、お前の顔も久しぶりに見たいし」
「ちょっと今日は、悪いけど」
「そっか」
司、時任司の声の合間合間に、自分は全神経を集中していた。電話越しにそこにいるはずの女の気配を探ろうと。それは時間をおいてなお止めることのできない行為でした。
「俺はでも、今日以外は無理かな。残念。じゃ、都合のいい日を教えてよ。奏をこさせるからさ」
かなで……、その音を耳で久しぶりに拾った。
「奏、おい、崇だぞ」
あっさりと司は電話を奏に渡した。
「崇くん、久しぶり」
昔よりも落ち着いた女の人の声が、携帯から流れてきた。声と一緒に奏の全てを思い出した。凍らしていた全てが一気に立ち上った。
「久しぶり」
どんなつもりで、こんなことをしているのだろう?奏は。
この女は頭がおかしい。
「実はね、今度、この人の……」
ああ、かなで、崇は忙しいんだからそういうのはまた後にして時間だけ決めちゃえよ。
司の声が近くで聞こえて、そう?とおっとりと答える奏の声がする。
「ごめんね。いつだったら会える?」
どうして、もう一度また僕に会うなんていう愚行をこの人はしているのだろう?
そんなことを思いながら、暗い気持ちでiPad片手にスケジュールを確認する。
僕が数日後の日程をいうと、彼女は明るく答えた。
「ああ、うん。それで。わたしは暇だから崇くんに合わせる」
電話が切れた後、自分はしばらく呆然としていました。本当だったら、もう二度と顔を合わせるようなことはなかったろうに。自分は忙しいことを理由に高校の同窓会とか顔を出さない人間だし。たまにあの頃の友人知人を通じて、司や奏の消息を聞くぐらいだった。
こちらからは一生会うつもりなんてなかった。それが、向こうからわざわざ会いに来るなんて。
もう一つ。
こんなに長い時間が経ったのに、奏の声を聞いただけでこんなに動揺している自分に驚いた。
あれは、もう、遠い過去のことだろう?
飯塚春菜
中川さんの古い友人だと言って会社に男の人と女の人が来た。見るからにお金持ちな人たちだった。高級レストランでバイトを始めて以来、お金持ちを目にする機会も増えた。だからすぐにわかった。一見シンプルないでたちの男女のさりげなく施された時計とか靴とか鞄やアクセサリー。お金持ちは匂いが違うのだ。
中川さんってお坊ちゃんだったっけ?
一瞬、自分の中の中川さんが根底からひっくり返りそうになる。しかし、たい焼きにコーヒーを合わせる人はいいところのお坊ちゃんではないと思う。庶民だ。そう思い直してから、上司に電話をかける。
名前を告げると、電話の向こうに闇のような沈黙が訪れた。最初は、相手を思い出せないのか、あるいは知り合いでもなんでもない人が知り合いだとでも言ってきているのかとか思いました。だって普通、学生の時の友達が訪ねてきたらはしゃぐものでしょ?でも上司は確かに友人だと淡々というので、なんだか変だと思った。
電話を旦那に渡して、そして、その電話が奥様に渡って、仕切り直しで会う約束を取り付けた。電話を切ると、2人はこちらが出したコーヒーを飲み終えそっと立ち上がり帰っていった。
その日、暗くなってから上司が戻ってきた。
「まだいたの?」
フロアを見渡してわたしを見つけてしかめ面になる。
「いたら悪いみたいですね」
「そういうわけじゃない」
そして、ストンと自分のデスクに座るとパソコンを取り出した。まだ仕事するらしい。こちこちとキーボードを打ち出した中川さんの横顔を眺めていた。
「やることないなら早く帰りなさい」
「帰るためのエネルギーをぼうっとしながらチャージしてるんです」
「なんだそりゃ」
本当は、しばらく眺めていたかった。ただそれだけ。
「今日」
ぼんやりしているわたしに向かって帰れと言ってたくせに話しかけてきた。
「なんですか?」
「時任、なんか言ってた?」
「なんかって?」
「なんで来たの?今日」
「え、聞かなかったんですか?」
「聞いてない。づかちゃん、聞かなかったの?」
「そんな、中川さんのお客さんに根掘り葉掘り聞きませんよ」
「そっか……」
こちこちとまたなんかやってる。流石にこれ以上ボケっと見てたら怪しいかと思って、机の上をかちゃかちゃと片付け出した。帰ろう。
「次来る時、同席してくれない?」
「はい?」
何か妙なことを言い出した。思わず帰る準備の手を止めて、そっちを見た。
「だめか」
「いや、ダメじゃないですけど、学生時代のご友人ならわたし、お邪魔じゃないですか」
「いや、邪魔じゃない」
「……」
今更、1人で応対できないなんて新入社員でもあるまいし何を言ってるんだ?
「なんか訳ありの人なんですか?」
「は?」
「できるだけ会いたくないみたいに見えますけど」
「そんなんじゃないよ」
「いや、でも、みんないるでしょ。学生時代とかに苦手だった人とか」
「そんなんじゃないって」
怪しいな……。ま、でも、別にそこ突っ込むのも風流ではありませんな。
「まぁ、じゃあ、はい。同席します」
「よろしく」
荷物をまとめて机の上を片付けると外に出た。
***
「こんにちは、失礼します」
そして、また数日後に上品ないでたちの大人の女性が訪ねてきた。
「あの、これ、つまらないものなんですけど、皆様で」
「え……」
有名店の洋菓子でした。老舗の。
「お気遣いいただいてありがとうございます。ありがたく頂戴いたします」
どういう目的で来社しているのか、どういった立ち位置で応対していいのかいまいちわからなかったけど、出されたものを断るなんて法はないだろうと頭を下げて受け取った。
「こちらへどうぞ」
うちには密室な応接室は社長室の中にしかないんです。今日は社長が用事で外に出ていたので、なんとなくそちらへお通しした。ほら、わけありそうだったし。みんなに話が筒抜けに聞こえるようなとこより密室の方がいいかと気を効かした。
「中川さん、時任様、いらっしゃいましたよ」
「はい」
どちらかといえば非常につまらなさそうな顔で立ち上がると、歩いてパッとミーティングブースを覗く。
「どこに案内したの?」
「社長のいない社長室です」
「こっちでよかったのに」
外した。ま、でも、仏頂面のままで上司はゆく。
ガチャリとドアを開けて、中川さんがまず入って、わたしがその後ろに続いた。
「どうも」
「あ……」
女の人が親しげな笑顔を中川さんに向けた。そんな笑顔をするととても華やいで見えたし、もっと若く見えた。そして、彼女は中川さんの後ろにくっついて入ったわたしを見て、その笑顔を引っ込めた。
……だから言ったのに、ビミョーだなぁ。
「あ、あの、お飲み物お持ちします。コーヒーか紅茶か、どちらにされますか?」
「ああ、じゃあ、紅茶でお願いします」
とりあえず逃げた。2人っきりにしてあげた。
中川崇
そこに、大人になった奏がいた。ちょこんと座ってた。大人になって、母親になった奏が座っていた。そこには残酷なことに、十代の頃の面影が残ってた。そして、僕は思い知らされた。忙しい日々の合間に自分が見ないようにしてきた事実、時間が僕にも彼女にもきちんと経っていて、そして、その時間はきっちりと僕からも彼女からもさまざまなものを奪っていったのだという事実。
それでも、そこには残酷なことに、十代の頃の面影が残ってた。彼女の顔の上に、そして、おそらく僕の顔の上にも。
全くの別人だと思えるくらいにお互い、全然違う顔だちになっていたらよかったのに。
づかちゃんが、何を思ったのか気を効かして出てった。仕方なく僕は奏の前のソファーに座りました。
「崇くん、変わんないね」
そう言われて、ため息が出た。
「冗談言うなよ。変わらないわけないでしょ?」
「でも、変わんない」
そう言って屈託のない笑顔を見せられた。
「ほんっと悪趣味だな」
「なにが?」
もう一度ため息が出た。
「普通、会いに来るか?」
「しょうがなかったのよ」
「しょうがなかったって?」
「成り行きでこうなっちゃったのよ。わたしが決めたわけじゃない」
「司が言い出したってこと?」
「まぁ、そうね」
「それだって、適当に上手いこといってやめさせればよかったのに」
「あの人、妙なところで勘がいいし、どうしようと思ってるうちにこうなっちゃったんだもの」
ガチャリと音がして、づかちゃんがお茶を持って入ってきた。
「お口に合えばいいんですが」
彼女が近づくと、南国の香りがした。
「あら、いい香りね」
「フルーツティーです。どうぞ」
かちゃかちゃと茶器がテーブルの上に置かれる。
「おいしい」
注がれたお茶の香りを嗅ぐときに奏がそっと伏せた睫毛を眺めた。そのあと笑うにっこりとした顔。
「これ、マンゴー?」
「ええ、乾燥させたマンゴーとか色々入ってます」
「パッションフルーツ」
「ああ、ええっと、パッションフルーツが」
細かいところをきちんと覚えていないので注意した。づかちゃんが苦笑いしながら、僕の横にちょこんと座る。
「ご用件を伺います」
僕がそういうと奏がちらりとづかちゃんを見た。
「ああ、飯塚さん」
「どうも、飯塚春菜です。よろしくお願いいたします」
「春菜ちゃんっていうの?」
「はい」
「若いねぇ、何歳?」
「ああ……」
「歳なんかどうでもいいでしょ」
つい、話の腰を折ってしまった。
「ご用件を伺います」
「ああ、あのえっとね……」
奏は無意識に手と手を顔の前で組んだ。その癖、まだ直ってなかったんだ。考えながら話す時に手と手をちょんちょんと合わせながら話す癖。
「司の妹の寧々ちゃんの結婚が決まって、それでね」
「おめでとうございます」
「あ、ありがとう。それで、寧々ちゃんっていうのが神谷秀のレストランが好きで、それで、レストランウェディングをやりたいと」
「ああ……」
「それで、連絡先とか調べてて、もう、司とびっくりした」
そして奏は笑った。その手の指の指輪の煌めきを僕はなんとなく眺めた。
「中川崇って同姓同名だよねって。でも、どうやら本人らしいってことになってそれで2人で崇くんに会いにきたの」
「うちの店舗のどれがいいとか指定はあるの?」
「ああ、近くに教会があったりとかするといいのかな?」
僕はづかちゃんを見た。
「そんな店舗、あったっけ?」
「調べてみます」
づかちゃんが手帳に何やら書き込んでいる。
「他に何かご要望はありますか?」
「細かく言い出すとキリはないと思うのよね。寧々ちゃんなんか色々言ってたし。ちょっと他にはない独特な式にしたいって」
「なるほど。お料理のご指定等は?」
「それよりも教会かなぁ。式に参列して披露宴に移動でしょ?移動が不便だとちょっとね」
「ええ、そうですね。じゃあ、ちょっと今、それぞれの店舗の立地条件を調べてきますね」
づかちゃんはそう言って手帳片手にテキパキと出ていった。奏は彼女の去っていく後ろ姿をしばらく眺めていた。
「かわいい子ね」
「何人くらいの式になるの?」
「100人くらいかな」
「100人か……」
その日のために追加で席をしつらえないといけないな。それぞれの店舗のホールの形を思い浮かべた。奏はそんな僕をみていた。
「ほんとびっくりした。あなたの名前を見つけた時」
「……」
「レストランウェディングなんてめんどくさいからやめろって渋ってた司が、あなたの名前を見て気が変わって」
司のともすると強引とも言える性格を思い出しながら僕は聞いた。
「うまくいってんの?」
「なにが?」
「結婚」
聞いてすぐに何聞いてんだろと思った。
「まあまあね。崇くんは?」
「なにが?」
「結婚」
僕は両手を広げて手の平と甲と交互に見せた。
「まだ自由」
「残念なことに?」
「幸運なことに」
「結婚くらいしなさいよ」
「まだいいかな」
「まだって言えるような歳じゃないわよ。わたしたち、もう」
「仕事が忙しくてね」
便利な言い訳だ。
「お待たせしました」
IPADを持ってづかちゃんが戻ってきた。
「他の店舗も近くに教会がないというわけではないんですが、一番立地条件がいいのはこちらの店舗です。青山のマジ」
そう言うと、づかちゃんはパッドで店舗のホームページを開いて、店舗の中が紹介されている画像を奏に見せる。奏はそれを受け取って、次から次と画像を見ている。
「フレンチのお店ですか?」
「はい」
づかちゃんはちらりと僕の方を見た。僕はそっと顎をしゃくった。彼女は自分で店舗の説明を始めた。
「子供も来られる高級フレンチというのがコンセプトなんです」
「ええ?」
奏がちょっとポカンとした。づかちゃんがその反応に嬉しそうに笑う。
「慣れないテーブルマナーとか、あと、高級店特有のお店の雰囲気で、お子さんって硬くなってしまってあんまり楽しめないんですね。それにそもそも、小さな子は大声で騒いだり走り回ったりするし、そういうのに気を使うから子連れで来られるお客様って、弊社の他店舗では限定的なんです。反対にそこに応えるお店を作りたいというのが神谷の意志でして」
「へぇ〜」
「だからといって、こう、走り回ってもいいぞ!というのでは芸がないと。やはり、美味しいものをきちんといただくという経験を子供にさせたい、いわば、日常とは違うものを求めて皆様いらっしゃる訳なので、上品ではあるけれど、そこまで堅苦しくなく楽しめる空間。このお店に限っては、子供たちにやや傾けたサービスをする」
づかちゃんが目をキラキラさせながら話すのを横で見ながら、神谷秀がそのコンセプトを披露した数年前の場面を思い出す。社員である我々も今日の奏のようにポカンとして、その中でキラキラとした目でやっぱり社長は語っていた。
「こんなこと言ったら、真似するなと怒られるだろうけど、参考にするのはディズニーランドの精神だと」
「ええ」
「子供たちが魔法の国に来たような気持ちになって、楽しんで帰るような経験をさせてあげたい。そこから、お店の名前は マジ magi フランス語で魔法という名前になったんです」
「だから、こういう内装なのね」
中世のお城の中にいるような雰囲気を大切にしている。
「そして、この店舗の従業員は、簡単な手品ができるんです」
「ええ?」
「食事が出てくるのを待つ間、お子様たちが楽しめるように簡単な手品をして差し上げるのがサービスの一つとなってますので」
「すごいわね」
しかし、これが運営側としてはかなりきついのだ。手先の器用な人でないと練習しても練習してもできるようにならないからだ。
「定期的にイベントも行なっていて、この時は専門の方が来ます。食事をしながらマジックが楽しめるようなイベントで、それを想定して作られた店舗ですので、メインホールは舞台を囲むような構造で作られているんです。ウェディングにも比較的使いやすかと」
「ふうん」
「実際に店舗をご覧になりますか?気に入っていただけましたら、もっと細かいご要望を伺った上で概算でお見積りをさせていただきます」
「ああ、それはやっぱり寧々ちゃんが一緒の方がいいかなぁ」
話がまとまってきたところで、そっと席を立った。
「じゃあ、具体的な話は飯塚に任せるんで」
僕がそう言って立ち上がると、女二人に下からじっと見られた。
「なにか?」
「崇くんが担当してくれるんじゃないの?」
「そうしたいのはやまやまですが、残念ながら色々しなければならないことがあって……。飯塚は若いですけど有能ですよ」
「別に飯塚さんに文句があるわけじゃなくて、でも、崇くんがいるから司もわたしもお願いしようと思ったのに」
ため息が出た。
「久しぶりにもっと話せると思ったのに」
余計なことを言う。
「僕も、できるだけ関わるようにはするけど、基本的なことは飯塚と打ち合わせてください」
僕を不服そうな顔で見上げてくる甘えた顔。奏、変わらないな本当に。何度もこの顔に負けて僕は彼女を甘やかしてきた。何度も。
話は終わっていなかったけれど、僕は背を向けて社長室を後にした。