10 呉越同舟②
10 呉越同舟②
飯塚春菜
片付けが終わってトイレに行こうと廊下に出たら、聞いてはいけないことを聞いてしまいました。
「あれじゃ、まるでわたしが悪者じゃない」
「いや、そんなの考えすぎだって」
三原ちゃんの声でした。それを宥めている野田くん。その会話だけで状況が手に取るようにわかり、ああと思いながら、廊下でバッティングしないように同じフロアの別会社の方へ向かって廊下を曲がり隠れた。観葉植物の陰に。
プリプリ歩いていく三原ちゃんが見えて、その後にのっそりと野田くんが続く。こっち見た、野田。観葉植物のギザギザの葉越しに目と目が合う。ギョッとした野田、ちらっと三原ちゃんの方を見た後で、そっとこっちに近づいてきた。
「もしかして今の聴いてた?」
「聴こえちゃったよ」
ひそひそ声で会話する。ギザギザの葉の観葉植物(うちの会社のものではない)の横で。
「あ、あの、あんまり気にしないで」
「ああ、大丈夫。想定内というか、わたしは心臓に毛が生えてるからさ」
こんなことくらいでメソメソはしない。しかしだな……。
「めんどくさ……」
「女の子って、なんか、大変だね」
とりあえずわたしが大丈夫なのを確認して、去ろうとした野田。捕まえた。
「なに?」
「男とか女で括らずに、君も同じ舟に乗ってるから」
「はい?」
「間に挟まって、この状況をコントロールしろ。一緒に」
「いや、無理無理無理無理」
逃げようとしてじたばたし始めた。
「じゃ、どうしろってんだよ。こんな狭い会社の中でさ」
「そんな微妙なことには僕は関与できない」
「だからって、誰がおさめる?社長にはそんなデリケートなことはできないしさ」
「中川さん?」
「ありとあらゆることで既に手一杯でしょ?」
「じゃ、づかちゃん?」
「殺す」
チーン
「いや、生まれて初めて言われた。この至近距離で殺すって」
ショックを受ける野田。確かに君のように穏やかに生きてきたら殺すなんて普通言われないだろう。
「わたしも生まれて初めて言った」
「いや、嘘だ。その割にはサラッと言った」
「そう?」
弟に……、子供の頃言って、親に頭はたかれたことがあったような。
「とにかく事情聴取だ。なんて言ってたの?」
観葉植物の横でコソコソと続ける。
「ああ、見られると厄介だな。あっちいこう」
「え?」
念には念をだ。我々は今潜入捜査員のようなもんだ。廊下をさらに奥に行って、非常階段に出ました。
「春菜ちゃんたらまるでわたしへの当てつけのようにサオリと仲良くしてって言ってた」
「そんなつもりないじゃん」
「うん。ないね」
「嫌いな人と仲良くするなってあれだな」
「僕もできるだけ無視して仲良くしない方がいいのかな?」
一瞬、ポカンとしてビル風というのでしょうか?吹き付けてくる風に髪をぐちゃぐちゃにされている同僚を見た。
「いや、わたしたち、小学生ではないですよね?」
「はい」
「そんな無視とかいつの時代の話だよっ」
「でも、三原ちゃんは……」
今回、意外な一面を見てしまいましたよね。
「三原ちゃんもさ」
「うん」
「サオリレベルの強烈な人でなければ、平気なんだと思うよ」
「うん」
「サオリには拒絶反応が出ちゃったんだな」
「うん」
「つまりはアレルギーみたいなもんだ」
「アレルギー?」
「そう」
「はぁ」
「アレルギーの治療方法ってどんなか知ってる?」
「どんなの?」
「ちょっとずつ食わせる」
チーン
相変わらず、野田はビル風に髪をぐちゃぐちゃにされており、わたしも例外ではない。
「いや、全然、傾向と対策になっていないと思うんですが」
「でも、方向性は決まったよね。ちょっとずつ食わせる」
「それ、具体的にはどうやって?」
「2人があまり近づかないように気をつける。ほら、アレルギー反応でるから」
「うん」
「で、それでも、アレルギー反応でたら、アレルギー反応だなって思いながら」
「うん」
「相手を否定しない」
「否定しない」
「つまりは一緒に悪口言うってことだ。サオリの」
「え〜」
野田、ショックを受ける。
「そんなのサオリちゃんが知ったら傷つけるじゃない」
「優しいな。野田」
腕を掴んでちょっとずいっと近づく。
「サオリにバレなきゃいいんだよ」
「いや、でも、僕の良心が……」
純朴な青年だ。
「なに言ってんの、女子のフツーの処世術だよ。これ」
「いや、女、怖い。女の子、怖い」
顔を青くしている野田を見ながら、少し仏心を出す。
「だからさ。積極的に言わなきゃいいの」
「例えば?」
「こういうとこがちょっとああだと思わないときたら」
「きたら?」
「確かに、ちょっとそうかもねと」
「確かに、ちょっとそうかもね」
「そうだ。そうだ。練習しときな」
ガチャ
不意にドアが開いた。
「なんだ?お前ら。こんなとこで」
社長が電子タバコ片手に現れた。
「喫煙室、行きなさいよ」
「お前、ほんっと最近崇に似てきたな。狭っ苦しいとこでタバコ吸うの、嫌いなの」
そして、隣でタバコを吸い出す。
「なんでこんなとこに2人でいるの」
「ちょっと」
「もしかして2人って付き合ってるの?」
「その顔の真ん中に二つついているのは節穴ですか?」
「こういう時のお決まりの文句じゃねえか。返しがなってないなぁ」
呑気そうな顔を見ていて、ため息が出る。この人、ときどき羨ましいわぁ。
「あ、あの……」
横で黙って固くなってた野田くんが口を出す。
「なに?」
「本当に違いますから」
「……」
一瞬無表情になった後に、神谷秀は笑い出した。
「いや、野田くんってかわいい」
「社長、からかいすぎです。セクハラですよ」
「づかちゃんはかわいくない。入社時はもう少しかわいかったのに」
「悪かったですね」
そして、社長が来てしまったから続きを話せなかったんです。悪口に付き合う。とりあえずはそれでいいけれど、いつまでもそれではいけない。わたしたちの突破口はどこになるだろう?
この世にいる人たちがみんながみんな、手に手を取り合って仲良くなんて普通はいかないですよね?でも、自分の気に入らない人がこの世に存在しないなんてことはあり得ないわけで。
学生ならいいと思うんです。嫌いな人とは付き合わない。でも、仕事はそうはいかないでしょ。
わたしから見ると、三原ちゃんは悪い子ではないと思うんです。ただ、保守的なんです。わたしたちという共同体を、フォンテーヌのセントラルを愛している。その人間関係の中に急に1人飛び込んできた。それは、異分子です。
異分子に対して強烈に反応する人というのはどこの共同体にでもいる。じゃあ、みんなで協力して異分子を排除する?それが答えでしょうか?
いや、違う。
違うのだということは誰に説明されなくてもわたしには分かってた。社長の言葉、異分子を入れて異分子から学ぶ。わたしはこの考えに共感していました。
もともと自分は神谷秀の作る世界に憧れてこの会社に入りました。社長の作るものにはきちんとしたコンセプトがあった。顔を合わせては憎まれ口を叩いていますが、この人の芯にあるものには惹かれている。異分子をいれて異分子から学ぶ。
この話にはもう少し先があるんです。
人間が生物学的に強くなるためには、血を混ぜることが有効だと言われている。混血。白人と黒人が結婚するとか、白人と黄色人種が結婚するとか。そこまでいかなくても、例えば中国人と日本人が結婚するとかそういうこと。それもまたひとえに、DNA的に遠いもの同士が混ざり合うことで、それぞれの優れた部分を取り込んで、進化することができるからなんです。
似たもの同士でいれば心地よい。
しかし、似たもの同士は強い部分も弱い部分も同じなんです。
違う人が自分のそばに寄ってくる。その人は自分の弱い部分が強い人かもしれない。いわば、自分のできないことをできる人かもしれません。その時、人間は本能的に怖くなると思うんですね。自分を守ろうと思って、排除しようとする。
だけど、それでは人は進化しない。
真の強さとは己の弱さを認め、そしてそれを他者から補い取り入れ、一つになっていくところにある。飲み込まれて己を失うかもしれないという恐怖に勝つところにあるのかもしれません。
***
サオリは、親の都合で小さな頃から海外を転々として育った帰国子女の子でした。大学から日本に戻ったらしい。一流大卒で、大学卒業後は有名な広告代理店で働いていた。それが、何を思ったかその広告代理店を辞めてフォンテーヌで働きたいとアポもなしに神谷秀を急襲してきたらしい。
その後、何がどうなったのか詳しくは知らないけれど、候補を見つけろと長く言われてそれでもなかなか決めることのできなかったセントラルに、社内からではなく突然社外から人が入った。
小さな会社にそれなりの波紋が立ちました。
初めてセントラルに彼女が来た日のことを思い出す。
「わたしは海外でずっと育ってきたので、ファーストネームで呼ばれることに慣れてるんです。サオリと呼んでください」
そう言ってニコッと笑ってる彼女は、眩しかったな。綺麗な子だし、それに立派な経歴。それから、自分は自分の面接の日を思い出した。バイトの面接ではなくて、社員としての面接の日です。わたしの面接の応答のまずさに大笑いした社長に、その場であだ名をつけられた。春菜っていい名前だねと言われて、でも、春菜だと可愛すぎるから、君は今日からづかちゃんだ。
その同じ社長が、彼女の求めるままにサオリと呼んでいるのをみたときに、なんとも言えない気分になりました。
社長のことが好きだとかそういうのはもちろんない。それは男女の嫉妬ではない。だけど、嫌な感じだった。きっと三原ちゃんも同じ気分だったと思う。わたしたちが日本的な速度で、日本的な距離感で、ゆっくりとちょっとずつ時間をかけて詰めていったもの、そういうものをあっという間に追い越された気分とでもいうのだろうか。
追い越されたのはそういう親密さだけではなかった。
「社長、次の出店はどこになるんですか?」
「うーん」
「大体の場所とかないんですか?」
「本当は……」
コーヒーを飲みながら天井の方を眺めながら話し出す。サオリがすぐ横に座って聞いている。
「街に惚れて、その街にってのがやりたいの」
「それって地方ですか?」
「そう。その土地ならではの雰囲気を感じて、それをお店に凝縮させたいの」
「へぇ」
「だけどなぁ」
順調に都内に店舗を増やしていた我が社ですが、今、足踏みをしている。
「何がネックになってるんですか?」
「都心を離れて地方に出店すると、管理するレベルが一気にあがっちゃうんだよ。もー少し」
「なんですか?」
「まぁ、簡単に言えば金に余裕がないと手を出せないかなぁ。会社の、人を中心にした構造をね、考えて、それから、どのぐらいのコスト増になるかとかさ」
「なるほど」
「ここまでは良かったけど、こっからはな」
そうして、社長は難しい顔をした。
「じゃあ、都心にもっと店舗増やしたら?」
「ある意味、飽和するな」
「そうですか?」
「コンビニみたく増やせばってタイプの店じゃないでしょ?我ら」
「ふうん」
「サオリ、なんかいい案ない?」
社長は気軽にそう尋ねました。
「やっぱり都心に新店舗」
「どんな店舗?」
「スイーツ」
その時、そばで黙って話を聞いていたみんなの中から中川さんが顔を上げた。
「スイーツダメですか?スイーツ」
「どんな?」
「そりゃ、フォンテーヌがやるって言ったらもちろん本格的なフランスのスイーツですよ。パティスリー」
「どうやって?」
中川さんが話の輪に加わった。サオリはキラキラした目で話し出す。
眩しかった。
社長はとても気さくな人で、わたしたちが同じようなことを聞けば、いつだってこの時みたいに答えてくれた。たまにはわたしたちにだって、なんかいい案ない?って聞いてくれただろう。でも、わたしたちは、わたしは、それに対して自分の意見を言ったことなんてない。
そういうことを考えるのは上の人の仕事で、自分には、そんな、みんなを納得させられるようなアイディアなんてあるわけないし。
わたしは……
サオリを見るまで気づいていなかったんです。
わたしは、この会社にいて、一体何をしたいんだろう?
何ができるんだろう?
言われることに関しては精一杯やってきた。嫌だと思ったことなんてない。だって、自分の好きなお店のために全部なることだったから。だけど、自分から何か積極的にやったことがあっただろうか?
一体自分に何ができるんだろう?
そして、もう一度思ってしまった。
わたし、ここ、セントラルにいていいのかな?
これから、社長がまたどんどんと前に歩いて行って、フォンテーヌはもっと大きくなっていくのかもしれない。まず、サオリに追い抜かされて、そして、後から次から次へとくるいろんな人たちに追い抜かされて……。わたし、そんなふうになっちゃうんじゃないかなぁ。
10年後、20年後の自分って、どんな自分?自分が認めるかっこいい自分でいられるんだろうか?心の中に突然穴が空いたみたいに不安になった。わたしは社長がいうところの胃を作るような仕事ができる人間じゃない。サオリとは違う。社長とも。