第一章(二) 最悪の妻
ジン・ダンドアは、北にあるノーサレア地方の領主である。
王都からは遠い、北の果てであるこの地を治めており、つい数ヶ月前には結婚をした。
普通であれば、辺境の地と呼ばれるこの場所に嫁入りしてくれる事を嬉しく思うはずであるが、ジンにとっては疲労とストレスと我慢しかない結婚生活である。
というのも、その妻が『悪女』として有名なレティシア・コーレストであるからだ。
彼女は、ノーサレア地方でも悪い意味で有名である。
第二王子との婚約が結ばれたにも関わらず、第二王子を蔑んだとか、第一王子に付きまとっているだとか、酷い物言いをする女性だとか⋯。
色々な噂は聞いていた。
そして、ある日唐突に、第二王子とレティシアの婚約を破棄するという知らせを聞いた。
どうやら、レティシアの有責によるもので、しかし詳細までは分からないらしい。
それにより、コーレスト家は王家への賠償やら、レティシアの今後についてやらで、どうも大変であるという噂もまた聞いた。
そうした中で、ジンは、レティシア・コーレストと結婚することを打診したのである。
勿論、レティシアを恋い慕ってではない。
コーレスト公爵家に対して大きな貸しになるからであり、この結婚により繋がりが生まれるであろう、という打算的な考えによるものであった。
それに、もし、子供が生まれたら、こんな田舎者の一族に、高貴な公爵家の血筋が流れるのである。
元々、王国の中でも北の果てであるノーサレア地方に、嫁入りしてくれる貴族女性を見つけることは中々難しいことであった。
そんな事情で、ジンはコーレスト公爵家に結婚の打診をしたことにより、修道院かジンとの結婚どちらかを迫られたレティシアはこの地にやってきたのであった。
「旦那様!レティシア様が目を覚まされたようです!」
「!」
「ただ、その、なんだか様子がおかしいみたいです⋯。今は医者に診てもらっている最中です。」
「城に戻る。」
雪がパラパラと降ってくる中、ジンは城へと戻る。
レティシアに対して、全く愛情はないが、ここ数日は気掛かりであった。
というのも、数日前にレティシアは階段を踏み外し、頭を強く打ったのか、意識が戻らないまま、ずっと寝たきりになっていた。
事故ではあるものの、結婚してまだ三ヶ月ほどしか経っていないため、流石に死なれては困る。
まるで、意図的に殺したと周りから思われそうであり、少し心配になっていたのである。
レティシアの自室へと到着し、ジンはゆっくりと部屋へと入って行った。
侍女達が様子を見守っている中、レティシアはぼんやりとした表情で、医者と言葉を交わしていた。
ジンの姿に気がついた医者は、レティシアに笑顔で何かを伝えると、ジンの元へと来た。
廊下でお話します、と言われ、廊下の片隅で医者から話を聞く。
「まず、頭や体の傷や打撲については、しばらくは安静にしなければなりません。ですが、困ったことがあり⋯⋯、どうやら記憶喪失になっているようです。」
「記憶喪失?」
あまり聞き慣れない言葉に、ジンは言葉を繰り返した。
「ええ。全く珍しい。ニ十年ほど医者をやってきましたが、記憶喪失なんて過去に一人だけでした。その人は、数日程度ですぐに元に戻りましたが。」
「では、数日で元通りと?」
「断言出来ません。知り合いの医者から前に聞いた話では、記憶喪失になり、ずっと記憶が戻らなかった人もいたとか。」
「⋯⋯⋯。」
「色々とレティシア様に質問をしてみましたが、ご自分の名前さえも分かっていませんでした。勿論、結婚していることも。また、王都どころか、王国や、大陸の名称さえも分からないと⋯。おそらく、記憶喪失の中でも重症な方かと。記憶だけではなく、一般常識も失われている可能性があります。」
「こちらは何をすれば?」
「何も。とにかく安静にして、徐々に記憶が戻るのを待つしかありません。」
医者は、とりあえず明日にまた伺いましょう。何かあればご連絡下さいと言い残し、帰って行った。
その後ろ姿を見ながら、ジンは心の中で思う。
(⋯⋯別に、記憶喪失になっても困ることないな。)




