第20話 オレの人魚姫
午後19時20分。
オレ・翔月は、ようやくホテルのロビーに着いた。
隣には、担任教師が立っている。
こんなはずじゃ、なかった。
ロビーは、柔らかいカーペットに、洋風なソファーや机がある。明かりはオレンジ色に光っていて、高級感を感じさせた。
皆の夕食は、19時から。時間には過ぎている。だが、しょうがないことだった。
オレは、自分のスマホをきつく握りしめる。
約束を―――破ってしまった。
ひなこちゃんと、会う約束をしたのに。
忙しい中、会いに来てくれたのに。
オレは、静かに前へ進む。教員もそれにならって、隣で歩く。
「波原。何がともあれ、見つかってよかったな。ご親切な人がいるもんだ。」
署でしばらく待っていると、老夫婦が訪れ、オレの携帯を届けてくれたのだ。どうやら、昼ご飯の場所のテーブルに置きっぱなしにしていたらしい。
てっきり落としたとばかり思っていたから、そこまで頭が回らなかった。
先生はオレの肩をポン、と叩いた。
確かに、安心はした。痛く苦しいトゲは1本1本、静かに外れていくような開放感があったから。
でも、本当の痛みはまだ取れていなかった。
最後のトゲが、必死に抜こうとしても、胸に張り付いている。約束を破ったという、オレの罪は一生消えることがないと思った。
ロビーを見渡すと、見知った後ろ姿が2人見えた。
1人はオレとそっくりな、兄ちゃん。ずっと背中で追ってきたから、間違えるはずがない。
そして、もう1人は――
「ひなこちゃん!!!!!」
見つけた。
オレはその場で叫ぶ。その声が、ロビー内で鳴り響く。
「おい。波原。もうちょっと静かにしろ。一般の方にご迷惑だろう。」
先生にはそう言われたけど、もうそんなこと、今は何も考えられなかった。
無視するように、彼女の元へと走っていく。
「翔月くん……?」
そして、彼女もまた、その場で立ち上がった。
可愛らしいおかっぱの髪が、今は少し湿っている。水分を大きく含んでおり、その滴が肩にかけてあるタオルに触れる。
それだけじゃない。身体全体湿っているようだった。服は今にも下着が透けそうだ。
ああ――。
オレのせいで、彼女はこんな姿になってしまったんだ―――。
人魚姫は、オレとの約束を信じ続けて、ずっと待っていてくれたんだね―――。
隣に兄ちゃんがいることも、どうだってよかった。むしろ、今この瞬間、オレとひなこちゃんだけの世界に色づいたかのように、周りなんて見えなくなってしまった。
強く、そして、優しく彼女を包んだ。
「翔月くん!?」
彼女の久しぶりの声に、オレは声が震える。
「ごめん……!! ごめんね……ひなこちゃん……。携帯失くしちゃってそれで、それで………。」
「いいの…。いいんだよ。それより……」
そして、彼女は、オレの顔を優しく見つめる。
目が赤くなっていた。きっと、待っていたあの時間が、彼女を切なく、痛くさせていたのだろう。
「私はね……翔月くんが無事で、こうやって会えたことが、何よりも幸せなんだよ。」
「だから、そんなに自分を責めないでね。仕方のないことなんだから。ね?」
その言葉に、目頭が熱くなっていく。
好きだよ。
ひなこちゃんのことが、どうしようもなく、愛おしい。
キミは、なんでそんなに優しいの?
なんで可愛いの?
もっと知りたい。ひなこちゃんの良いところも、悪いところ全部。
オレだけに、教えてよ。
「無事、解決してよかった。じゃ、俺はもう行くから。雛子。気をつけて帰れよ。」
自分のなかで彼女への思いが募っていると、隣にいた兄ちゃんが、横から会話に参加する。
「あっ…陽樹くん……!!」
彼女がそう言うと、兄ちゃんは手を振りながら、夕食会場へ行ってしまった。
「波原。お前も早く夕食来いよ。入浴の時間は伸ばせないからな。」
奥村先生もそういって、彼と同じ方向へ向かった。
※ ※ ※
ひなこちゃんと2人きりになった。周りにも、あまり人がいない。時間と、天気のせいだろう。
まだ雨は降り続けている。入り口から微かにシトシトと雨音が聞こえてくる。
オレは静かに口を開いた。
「ねえ、ひなこちゃん。」
「ん?」
「風邪引いたらまずいし、お風呂だけでもここで入っていけば? オレ、お金払うよ。」
「でも………。」
お金を貰うのを渋る彼女に、オレはその手を取り、優しく、ギュッと握る。
「遠慮しなくていいからね。オレの責任でもあるし。それに、いつもお店で稼いでるから、心配しないで!」
彼女は、ペコリとお辞儀をした。その反応に、ホッとする。
少し、笑みが混ざっていて、その表情がまた可愛らしかった。
「あっ…そうだ!! お土産!!」
思い出したかのように、彼女はバックから大きな紙袋を取り出す。そこには、ローマ字で『KAMAKURA』と書いてあった。
「これ、オレに!? いいの!?」
好奇心に負けて、ついにその中身を確認する。
大仏の顔をしたたい焼きのような生地。それも1個だけじゃなくて、5個ほど入っていた。中身は全部違う味なのだろうか。
「ふふ。この前、貝殻貰ったから、そのお礼。」
「どれもうまそうで、今から食べたいくらいだよー!! 夕飯の前に食べちゃおうかな。」
「それはだめ! ちゃんと夜のご飯は食べないと。これは、お部屋でゆっくり食べてね?」
「ちぇ。わかったよー! てかホント、まじでありがとう! 絶対すぐ食べるから。そしたら、また絶対に連絡するね!!」
オレはポロっと本音をこぼす。
「貝殻なんてちっぽけだったな、もっといいものにしておけば…」
すると、その言葉を遮るように、彼女は言葉を放った。
「そんなことない。」
「あの貝殻、気に入ってるよ。可愛くて、部屋で見るたび、うっとりするの。ああ。これ、翔月くんから貰ったんだなって、思い出すよ。」
ふいに、目が合う。
目の赤みは、少し引いているようだった。
メイクが取れてきているように見えて、目が少し黒い。なんだか、パンダみたいで愛おしく見えた。
「……やばい。オレ今、すげぇドキドキしてる。」
「ほら。」
彼女の手を取り、オレの胸に手を当てる。
「ほ…本当だね……。」
女の子の柔らかく、温かい手の温度。オレのうるさい鼓動を、そっと優しく包むようだった。
「そのまま、オレの方見てて。」
彼女と目が合わない。ずっと視線が泳いでいて、動揺している。
その健気さに、思わずクスッと笑ってしまう。
あの日、キミと初めて出会った日の続きを、今ここで―――。
「ひなこちゃん。耳貸してほしい。誰かに聞こえちゃ、まずいから。」
そして、返事を聞くこともなく、ぐいっと彼女の腕を引っ張った。
オレだけを、見てほしいから。
それは、前も、そして今も、変わらない。
キミをもっと知っていくたびに、どんどん好きが溢れてきて、もっと独占したくなるんだ。
髪に隠れていた小さな耳。それは小動物みたいで、思わず食べたくなる気分にさせた。
そして、彼女だけに聞こえる声で、できるだけ小さな声で、優しく囁く。
「好きだよ。 オレと、付き合ってほしい。」
そして、耳から離れて、話を続ける。
「返事は、いつでもいいから。受験もあるだろうし、オレ何ヶ月でも、何年でも待てるからね。」
ひなこちゃんは、時間が止まったかのように、身体が硬直していた。ピクリともしない。
この時間がなんだか焦れったくなって、思わずこの場から逃げたくなっていく。
オレたちの時間が、終わったかのように、ロビーの時計の秒針が聞こえてくる。
「それじゃあ!! 帰り、気をつけて!!!」
そして、逃げるようにその場を立ち去った。
早まる鼓動を、手で押さえながら。




