第10話 オレの覚悟
自分の垂れたよだれが、机に垂れたのを察知して、オレ・翔月は咄嗟に起き上がった。
寝ていた。いつからだっけ。
近くの時計をぼーっと見つめると、時刻は既に日付を跨いでいた。
夏休みの宿題が終わらなくて、それで兄ちゃんに手伝ってもらって、それで、それで……。
机の上に広がっているプリントやノートの字を見つめる。
兄ちゃんは、オレの字に似せるのがうまい。小学校の頃から宿題を手伝ってもらっているが、1回もまわりにバレたことがない。
オレがやったのなんて、ほんの一部で、起きた頃には、ほぼ全ての穴埋め課題が埋まっていた。
そうか…これは全部、兄ちゃんが…。
昔から、彼は、面倒見のいい兄だった。双子で、数時間しか変わらないはずなのに、充分すぎるほどに兄の責務をやっている。
一方のオレは、黙ってても『兄ちゃんが何とかしてくれる』と人任せで、あんまり人のために何かをしたことがあっただろうか。
そういうところは、密かに尊敬していた。
窓のカーテンがふわふわとなびいている。夜風はまだ生暖かい。残暑はまだ続くようだ。
すると、窓の外から人の声が聞こえる。低い声。声のもとは近い。近隣の住民ではない。
だって、この声は兄ちゃんだから。
オレは、彼にバレないようにそっと耳を澄ます。間違えない。誰かと話している。こんな夜遅くに。
一体、誰に。何の用があるのだろうか。
そして、オレの耳が言葉をはっきり掴んだ。耳がピクリと動く。
『本気だから。俺。』
その言葉を聞いた瞬間、心臓が痛いくらいに脈打ち、不自然な手汗をかいた。
兄ちゃんは、ひなこちゃんと、話してる―――。
本当は、耳を澄ます前に、なんとなく知っていた。彼はオレに比べて、あんまりスマホを見ないし、それなのに最近は、不自然なほどに携帯をよく見ていたから。
きっと、ひなこちゃんのことを考えて携帯をいじっていたのだろう。そう考えれば、今までの行動すべてが、パズルのように繋がる。
別人にように変わった。これが、恋した変化なのかもしれない。
オレはどうだろうか。確かに、店は前より、少しやる気が出たけれど、兄ちゃんの手助けが必要じゃなくなっただけで、必要最低限なことしかできない。
今度の夏休み明けテストも、勉強するのがめんどくさいからノー勉で行こうとしていた。クラスの男女でカラオケに行く約束もした。
でも、そのとき兄ちゃんは―――
夏休み明け試験も、前からコツコツ勉強をしていたのも知ってるし、あんまり大勢でワイワイ遊んだりせずに、何でも器用にこなす。お店のことも、お客さんに言われなくても充分なサービスを提供している。新作のメニューも、夜遅くに企画をしているのも、オレは全部知っていた。
兄ちゃんと比べれば比べるほど、自分が楽な方向にしか逃げていない、ちっぽけな人間なんだと気づく。
彼と比べるられるのが嫌だから、勉強も運動も全部やめた。だって、全部負けて、自分が惨めになるのな情けないから。
だけど、ひなこちゃんは、情けない人を選ぶわけがない。
そうだ。変わらないといけないのは、オレの方だ。
最初から全部諦めたら、もっともっと情けない自分になってしまう。
彼女だって、そんなオレを見放すだろう。
ひなこちゃんの隣にいたい。そばにいたい。
今度、鎌倉に遊びに行ったときは、オレだけを見てほしい。
そのためには、隣で歩いて恥ずかしくない自分でいることなんだと思う。
「……翔月。起きたのか。」
ベランダから、彼から出てきた。左手にスマホを持っている。
「兄ちゃん。」
「あーー…あと10ページあるな…やるか、じゃあ翔月はーーー………」
彼がテキストをペラペラと開きながら、難しい顔をしている。明日は久しぶりの学校。睡眠時間を確保したいのだろう。
オレは、彼の手をそっと止めた。
「いや、その先はオレが全部やる。」
「おお…どうした。急に。別に俺も手伝うけど。」
「いや、大丈夫。さすがにオレも自分で頑張る。」
そして、空気を誤魔化すように、満面な笑みを見せた。
「ほら。オレ、留年の危機っしょ?」
「………わかった。頑張れ。じゃあ、俺は寝るから、でかい声出すなよ。」
「わかってる。」
ありがとう。兄ちゃん。
兄ちゃんのおかげでオレ、やっぱり頑張ろうと思えた。
ひなこちゃんに、もっと魅力的だと思ってほしいから。
人に気に入られるためには、本人自身も努力をして、変わりたいと、もがくことなんだって。
そんな当たり前のことに、どうして今まで気づけなかったんだろう。
好きな子も、元カノも、たくさんいたはずなのに。
ひなこちゃんに出会うまで、何もわかっていなかった。
オレ―――変わりたい。
大好きなキミに、振り向いてほしいから。




