漆黒の皇帝と広がる噂
王都の中央通りを見下ろす、高級宿の二階の一室。
重厚なカーテンの隙間から街の様子を眺めていた男は、静かに吐息を漏らした。
彼の名は、ヴィンセント・フォン・ガルシア。
王都の北に位置する軍事強国『ガルシア帝国』の若き皇帝である。
弱冠二十二歳にして帝位を継いだヴィンセントは、冷徹な判断力と類まれなる剣技、そして決して人前で笑みを見せない静謐さから、周囲から『冷酷皇帝』と恐れられていた。
今回、彼は身分を隠し、自ら数名の精鋭騎士だけを率いてこの国を訪れていた。
隣国であるこの国が、最近の魔物の活性化に対してどのような防衛を行っているのかを密かに確かめるためだ。
「……緊張感のない街だな。」
ヴィンセントは、深い紺色の瞳を細めて呟いた。
つややかに光る黒髪をかき上げ、上質な仕立ての黒い上着を羽織る。
その立ち姿はただそこにいるだけで周囲を圧倒する威厳に満ちていたが、彼の心は常に冷静で冷めていた。
彼のもとには今まで数多くの貴族の令嬢たちが言い寄ってきた。
だが、誰もが彼の持つ『地位』や『権力』、そして帝国の財産しか見ていなかった。
愛などという曖昧なものを信用したことはない。自分にとって必要なのは、帝国を護るための力と成果だけだと信じて生きてきたのだ。
「ヴィンセント様、街の視察の準備が整いました。」
部屋の扉が静かに開き、側近であり近衛騎士隊長の男――マークが入ってきた。
マークは幼い頃からのヴィンセントの理解者であり、数少ない信頼できる部下の一人だ。
「ああ。王都の騎士団や冒険者の質がどれほどのものか、この目で確かめておきたい。……ん?」
ヴィンセントが窓の外に再び視線を向けた時、街の雰囲気がいつもと違うことに気づいた。
大通りを行き交う人々が、なぜか一箇所に集まり、何かに目を奪われている。
ざわめきが波のように広がり、誰もが息をのんで誰かの後姿を追いかけていた。
「どうしたのだ? 祭りでもあるまいし。」
「さあ……。何やら大通りが騒がしいですね。様子を見てまいりましょう。」
マークとともに宿を出て大通りへ向かったヴィンセントの耳に、民たちのひそひそ話が飛び込んできた。
『おい、見たか……? 今歩いていった女の子……』
『ああ……あまりの美しさに、生きている心地がしなかったよ……』
『白銀の髪に見たこともない琥珀色の瞳……女神様が舞い降りてきたんじゃないか?』
(美しい女、だと……? 下らない。民など、少し顔立ちの整った女がいればすぐに浮かれおる。)
ヴィンセントは心の中で冷静に吐き捨てた。
容姿などただの肉体の造形に過ぎない。そんなものに価値を見出す者の気が知れないと、鼻で笑っていた。
だが、大通りの雑踏の先――すれ違う人々が呆然と振り返る中心に、一人の少女の後姿があった。
手作りのシンプルな白いワンピースを身に纏い、風になびく白銀の髪。
俯き加減に足早に歩くその姿は、周囲の喧騒から浮き立つほどに清らかで、どこか儚げだった。
(……ほう。)
ほんの一瞬、その横顔が視界をかすめただけだった。
だが、ヴィンセントの鋭い目が捉えたのは、単なる容姿の美しさだけではなかった。
少女が纏う、あまりにも澄み切った『気』の波動だ。
極限まで研ぎ澄まされた聖気と、溢れんばかりの膨大な魔力が彼女の細い体から抑えきれずに滲み出ていた。
「ヴィンセント様……? どうかされましたか?」
「……いや。あの少女、ただの町娘ではないな。」
ヴィンセントは紺色の瞳を深く沈め、少女が消えていった冒険者ギルドの方角をじっと見つめた。
冷徹だった彼の心にかすかな興味の芽が芽生えた瞬間だった。
――そしてその時、王都の広場の方角から地響きのような恐ろしい蹄の音が響き渡った。




