前髪を切った夜
酒場の扉を閉めると騒がしい歓声や嘲笑は一瞬で遠のいた。
冷たい夜風が首元を吹き抜けていきワインで濡れた髪が額にへばりつく。
私は一度だけ深呼吸をして王都の夜道へと歩き出した。
街灯がぽつぽつと灯る石畳の道を足早に進んでいく。
5年間という時間は決して短くなかった。
幼馴染のレオンと一緒に村を出たあの日のことを思い出す。
『俺が絶対に立派な勇者になってルシアを守ってやるからな!』
そう言って笑っていたかつてのレオンの姿はもうどこにもない。
いつからか彼は周りの称賛に酔いしれ、私の差し出す回復魔法を当然のように受け取り、最後には目障りだと切り捨てた。
胸の奥に小さな痛みが走るけれど、不思議と涙は出てこなかった。
悲しさよりも長年背負っていた重い荷物をようやく降ろせたような、どこかすがすがしい気持ちの方が勝っていたのだ。
「……まずは今夜の宿を探さなくちゃ。」
手持ちの小さな革袋を確かめる。
レオンが床に投げつけたお金には一切手を触れなかったけれど、自分で少しずつ貯めていた銅貨がいくつか残っていた。
王都のはずれにある冒険者向けの安宿なら数日分は泊まれるはずだ。
私は大通りを外れ静かな裏路地へと足を進めた。
街外れに見えてきた古びた木造の看板を掲げた宿屋の扉を叩く。
「いらっしゃい……おや、随分と汚れてしまっているね。」
宿の女主人が不憫そうな目で私を見た。
泥と血に汚れワインの匂いまでさせている私はどう見てもまともな状態ではなかったのだろう。
「遠征の帰りで少し災難に遭いまして。一泊お願いできますか?」
「ああ構わないよ。二階の一番奥の部屋を使いな。水とタオルは置いてあるからね。」
銅貨を支払って鍵を受け取り、ギシギシと鳴る階段を上って部屋に入る。
小さめのベッドと古びた木製のテーブル、そして壁に掛けられた小さな鏡があるだけの質素な部屋だった。
鍵をかけて固いベッドの端に腰を下ろす。
静まり返った部屋の中で、私はぼんやりと壁の鏡を見つめた。
鏡に映っているのは相変わらず長い前髪で顔の上半分を覆い隠した陰気な少女だ。
泥とほこりで汚れ、フードの影に隠れた姿は誰が見ても「地味でブスな雑用係」にしか見えない。
(おばあちゃん……私、今までずっと教えを守ってきたよ。)
目を閉じると優しかった祖母の声を思い出す。
『ルシア、お前のお母さんもそうだった。あまりにも美しすぎる容容姿は時に男たちの欲望を狂わせ争いを生む。力を隠し、顔を隠して地味に生きるんだよ。』
その言葉を胸に刻み、私はずっと前髪を伸ばし続けてきた。
身の丈に合わないダサい鎧を着て、目立たないように、誰の邪魔にもならないように生きてきたのだ。
けれど、それも今日で終わりだ。
もう守るべきパーティーもなければ、私を縛る幼馴染もいない。
これからは自分自身の足で、自分の人生を歩んでいかなければならない。
「……もう、隠れるのをやめてもいいよね。」
ぽつりと呟いた声は静かな部屋に優しく溶けていった。
私は手持ちの荷物から小さな裁縫用のハサミを取り出した。
鏡の前に立ち、前髪を一束つまみ上げる。
刃を当てるとチリンと軽い音がして、長年私を隠し続けてきた重い髪が床へと落ちた。
一裁ち、また一裁ち。
視界を遮っていた黒い影が少しずつ取り払われていく。
ザクザクと前髪を切り終えると洗面台に向かい冷たい水で顔を洗った。
泥も、血も、レオンに浴びせられたワインも、すべて丁寧に洗い流していく。
手拭いで顔を拭き、息を整えてからゆっくりと鏡を見上げた。
「…………あ。」
思わず小さな声が漏れた。
そこに映っていたのは地味で暗い雑用係の姿ではなかった。
月の光を浴びて絹のように美しく輝く白銀の髪。
透き通るような雪のように白い肌に、吸い込まれそうなほど深く澄んだ琥珀色の瞳。
すっと通った高い鼻筋と、儚くも気高さを感じさせる息をのむほど整った顔立ち。
祖母がなぜあれほどまでに私に顔を隠すよう言っていたのか、その理由が痛いほどよく分かった。
この顔で外を歩けば間違いなく余計なトラブルを引き起こしてしまう。
「こんな顔をしていたのね、私……。」
自分の顔なのにどこか他人ごとのように見つめてしまう。
けれど鏡の中の少女は、ほんの少しだけ吹っ切れたような清々しい表情をしていた。
私はボロボロになった鎧を脱ぎ、鞄の底に畳んでおいた手作りの白いワンピースに着替えた。
特別な装飾もないシンプルな服だけれど今の私にはこれで十分だった。
切り落とした前髪を丁寧に拾い集めて布に包み、ベッドの脇に置く。
(明日からは新しい自分として生きていこう。)
新しい視界は驚くほど広く明るかった。
私は静かにベッドに入り、ゆっくりと目を閉じた。




