一
二時の巡視に出ると、7号室の戸が開いていた。
7号室は、春に前の入居者が病院へ移ってから、予備のシーツと使っていない車椅子を置いている。一階の十部屋のうち、ここだけが空いている。戸は夕方、沢井が自分で閉めた。
中から、小さく軋む音がした。車椅子の車輪が、床の上で少しだけ前後する音だった。
沢井は懐中電灯を床に向けたまま、戸を引いた。
カーテンが開いていて、外の街灯の明かりが部屋に入っていた。シーツの山の前に、車椅子が窓のほうを向いて止まっている。そこに、人が座っていた。白い髪を後ろで小さくまとめた、痩せた老女だった。色の抜けた紺のカーディガンを着て、膝の上で両手を重ねている。
玄関も非常口も、九時に内側から施錠してある。開ければ詰所のブザーが鳴る。今夜は一度も鳴っていない。
それでも沢井が最初に考えたのは、近所の家から歩いてきた人だということだった。夜中に家を出て、何キロも先で見つかる年寄りは珍しくない。
「こんばんは」
沢井は老女の横にしゃがみ、目の高さを合わせた。
「どちらから来られました? お家の方、心配されとるでしょう」
老女は窓を見たまま言った。
「沢井さん、カーテン」
沢井は自分の胸の名札を見た。暗い中でも、白い札に黒い字が読める。そうだ、これを見たのだ、と思った。
カーテンを閉めてから、カーディガンの襟の裏を確かめた。施設に入る人の服には、家族が名前を書いた布を縫いつけてくる。迷子の年寄りを保護したときも、まずそこを見る。
布はあった。マジックで「小野寺トシ」と書いてある。
聞いたことのない名前だった。この施設の入居者は、一階に九人、二階に九人。沢井は十八人全員の名前を、顔と一緒に覚えている。
PHSで二階を呼んだ。
「村田さん、ごめん。一階に、知らんおばあちゃんがおるんよ。外から入ってきたみたいで」
村田さんは、二階の九人がみな寝ているのを確かめてから、三分で降りてきた。7号室の戸口に立って、部屋の中を見回した。
「どこ?」
「そこ。車椅子」
村田さんは車椅子を見た。老女の顔のあたりを見て、それからシーツの山を見た。
「沢井さん」
村田さんは部屋に入り、車椅子のハンドルを握った。話をしやすいように、沢井のほうへ寄せようとしたのだと思う。車椅子は動かなかった。村田さんは下を覗きこみ、ブレーキを外して、もう一度押した。
「重っ。これ、タイヤの空気、抜けとるんかね」
車椅子が床を滑り、老女の頭が、押された分だけゆっくり揺れた。膝の上の手は、重ねたまま動かなかった。老女は顔を上げ、自分を押している村田さんを、下から見上げていた。
「誰もおらんよ」
沢井は返事ができなかった。
村田さんは車椅子を壁際に寄せ、ハンドルから手を離した。村田さんの目は、座面の上を素通りして、沢井の顔に来た。沢井はもう一度、車椅子を見た。老女はそこにいた。膝の上で手を重ね、さっきより少し首を傾けて、村田さんの横顔を見ていた。
シーツの山の影かもしれない、と思った。沢井は懐中電灯を床から上げ、まっすぐ車椅子に向けた。白い髪に光が当たり、髪の一本一本が見えた。老女はまぶしそうに目を細めた。影ではなかった。
「沢井さん、ちょっと座って休み。朝まで、私が上と下、見ようか」
十八人を一人で見る夜を、村田さんに頼むわけにはいかなかった。
「ううん。寝ぼけとったんやと思う。ごめんね」
声が上ずった。村田さんは何度か振り返りながら、階段を上がっていった。足音が二階へ消えると、廊下には常夜灯の明かりと、詰所の時計の音だけが残った。
沢井は7号室の戸の前から動けなかった。懐中電灯を持つ手が、自分のものではないように冷えていた。
十一年、夜勤をしてきた。そのあいだに、説明のつかないことが一度もなかったわけではない。亡くなった人の部屋から、次の晩にコールが鳴ったことがある。誰もいない部屋で、ベッドの柵が明け方まで鳴っていたこともある。そのたびに先輩たちは、夜勤しよったら、たまにあるんよ、と言った。それ以上は誰も話さなかったし、沢井も聞かなかった。朝が来れば、仕事はいつもどおりに始まった。
これも、たぶん、その類いのものなのだ。
そう思うと、少しだけ息ができた。だが、あのときのコールは鳴っただけだった。柵は鳴っただけだった。今、この戸の向こうにいるものは、沢井の名前を呼び、カーテンを閉めさせた。
警察を呼ぶことも考えた。だが、見えない人を保護してくださいとは言えない。管理者に電話をしても同じだった。
戸を開けるまでに、しばらくかかった。老女は、さっきと同じ向きで座っていた。
沢井は、シーツの山から膝掛けを一枚抜いて、老女の膝に掛けた。誰であっても、夜中に冷えた部屋で車椅子に座っている年寄りを、そのままにしておくことはできなかった。膝掛けの上から手に触れると、指は冷たく、乾いていた。
「ここは、ええとこやね」
老女が言った。
「みんな、なんでもしてもろうて」
沢井は返事をせずに、戸を閉めた。
巡視の残りを回った。1号室の山岸さんは右を下にして眠っていた。二時は左へ返す時間だ。肩と腰に手を入れて体を起こすと、山岸さんは目を開けずに「すまんね」と言った。
6号室の鈴木さんは起きていた。ベッドの柵につかまって、沢井の肩越しに廊下を見ていた。
「新しい人、来たんやね」
「新しい人?」
「紺の上っ張りの。さっきから、みんなの部屋を順番に覗いて回りよるよ。あんたが見て回ったあとを、ついて」
鈴木さんには、二十年前に亡くなった夫が、毎晩まだ帰ってこない。この施設で、鈴木さんの言うことを本気にする職員はいない。沢井もそうだった。
「あの人、何をしよるんですか」
「聞いて回りよるんよ。何かしてほしいことはないかって。あんたらが、よう聞くやろ」
四時の巡視で、1号室の戸を指一本ぶん開けた。
山岸さんは、ベッドの上に起き上がっていた。三年前から、職員が二人がかりでないと起こせない人だった。背中に枕もクッションも当てず、まっすぐに座って、カーテンの開いた窓を見ていた。外はまだ暗かった。
「沢井さん」
山岸さんは、こちらを向いて笑った。
「さっきのばあさんがな、起こしてくれた。外が見たいて、ずっと思いよったんよ」
ベッドの足元に、7号室の車椅子が止めてあった。膝掛けが、きちんと畳んで座面に載せてある。
ブレーキは、かかったままだった。




