凍りついた絶望の響きはもうなかった。ただ、生活がある。守られた、穏(おだ)やかな、国に内緒の生活が、そこにはあった
ある夜、五十嵐正克と平田三郎は、あの田畑に隣接した月一万円のアパートの敷地内にいた。
二人は車から降り、一階の細川さんの部屋の窓から漏れる、ささやかなテレビの音を聞いていた。
「五十嵐さん」
平田が、暗闇の中で囁いた。
「白石川さんがやっていることは、公金を使った『時効の書き換え』なんですね」
「書き換えじゃない。『国が一方的に打ち切った経費の、強制的な延長請求』なんだ」
五十嵐は、火のつかない電子タバコを指で挟みながら、細川さんの部屋のドアを見つめた。
「あの細川さん夫妻を覚えているか? 一人息子を警察の無能な『モシモシ、警察だ』の一声で殺された。あの事件の実行犯である不良グループの首領、そして奴らを脅していたワル共の多くは、とうの昔に別の罪で服役するか、あるいは時効の壁の向こう側へ逃げ延びて、何食わぬ顔で一般社会に紛れ込んでいる。警察は『捜査は尽くした』と書類を閉じ、国からの補償など一円も出なかった」
細川夫妻は、ただ「運が悪かった被害者」として社会のどん底へ突き落とされ、貧困ビジネスの餌食になりかけていた。それを白石川の組織が見つけ出し、このアパートへ連れてきた。
「白石川さんはね、細川さんに警備会社の職を斡旋したんだ」
五十嵐の声は、夜の風に溶けるように静かだった。
「そして、その警備会社が『地方創生コンサル』を通じて、国からの公的補助金を受け取るスキームを作った。細川さんが毎月受け取る給料、このアパートの格安の家賃、毎月届く泥のついた大根。そのすべての原資は、国が『時効だから関係ない』と突っぱねた、あの命の代償なんだよ。白石川さんは、国のシステムから合法的に金を引っ張り出し、細川さん夫妻の『奪われた時間』を毎月、一円単位で買い戻している。復讐のために誰かを刺すのではない。細川さんの明日という日を、お上の金で保障し続けること。それだけが、あの息子の無念を、そして細川さん自身の引き裂かれた魂を、静かに鎮める唯一の方法だからだ」
部屋の窓越しに、細川婦人が、ギンロクの届けたネギを丁寧にまな板で刻む包丁の音が、トントンと規則正しく聞こえてきた。その音には、かつて車中泊で凍えていた頃の、った凍りついた絶望の響きはもうなかった。
ただ、生活がある。守られた、穏やかな、国に内緒の生活が、そこにはあった。
©2026 [風風風]. All rights reserved.




