仁九郎が臨終の床で遺(の)こしたのは、呪詛(じゅそ)の言葉ではなかった
高層ビルの最上階に、白石川の静かな、しかし有無を言わせぬ声が響いていた。
窓外の夜景は、幾千もの冷たい光の粒となって、二人の男の影を巨大に縁取っている。
「思い出すな、ギンロク」
白石川はデスクの端に深く腰掛け、自らの両手を見つめた。
「ジンさんが、あの狭い病院のベッドで、最期に俺の腕を掴んで遺こした言葉を。あの人の声は、もう掠れて、今にも消え入りそうだった。だが、あの眼だけは、清流のように澄んでいたよ」
白石川の脳裏には、数十年前の、湿った潮の香りがする古い病室の光景が蘇る。仁九郎は、国家という巨大な機構が犯した「ある重大な不条理」の前に、自らのすべてをへし折られた男だった。しかし、その臨終の床で彼が遺こしたのは、呪詛の言葉ではなかった。
「不条理に打ちのめされた人を救え。復讐を考えるな。復讐を遂げたとて、心の平安は得られない。お前と同じような境遇にある、救済から漏れた人を救え。一人救えば、お前の心が救われる。誰かを救うことが、お前の魂を鎮めるのだ」
「あの時の俺は、まだ若く、血が滾っていた」
と白石川は自嘲気味に笑う。
「国を呪い、システムを爆破することばかりを考えていた。だが、ジンさんは見抜いていたのさ。復讐とは、国家側の都合と同じ冷酷な怪物に、自らの生身の魂を差し出す自殺行為に過ぎないと。だから俺たちは、復讐ではなく『救済』を組織の血肉とした。それも、お上が作った分厚い法律の壁――『時効』という名の、最も冷酷なシャッターの向こう側に置き去りにされた人々だけのな」
ギンロクは黙って聞いていた。彼の胸の奥で、かつて福島で孤立し、すべてを失った日々の記憶が、仁九郎という人の遺言と共鳴を始めていた。
「時効、ですか?」
ギンロクが低く呟く。
「そうだ」
白石川は頷き、デスクの上の補助金申請書とは別の、古びた黒いファイルの束に手を伸ばした。
「国にとってはな、時効は『効率的な書類整理』に過ぎないのだ。どんなに凄惨な事件であっても、どんなに理不尽な国家の過ちであっても、カレンダーのページが一定数めくられれば、お上の中では『存在しないもの』として処理される。飯塚事件の容疑者の死刑が、どうしてあのタイミングで執行されたのか。厚生労働省の村木さんの事件で、なぜ誰も本当の罪を問われなかったのか。すべては、時間がもたらす『忘却』という名の免罪符を、お上が手に入れたいからだ。法律が彼らを救わないと決めたその瞬間から、彼らはこの社会で、生きながら幽霊になる」
白石川がファイルをめくる。そこには、リンジが明日から回るルートの裏側で、この「完璧な装置」によって実際に救われ、魂を繋ぎ止められている人々の、静かな生活の記録がびっしりと書き込まれていた。
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