三途の向こう岸と予期せぬ話
あの地獄の修行が始まってから、六年が経った。
いよいよ後一年で、学園に入学する事になる。
しかし、やるこべきことは変わらない。
毎朝四時に起床し、グレンの用意した「死と隣り合わせのルーティン」をこなす。重力魔法の負荷は五倍になり、走る距離は強力なモンスターがいる魔の森を10往復する。1往復10キロ、モンスターを倒しながら100キロを走破する。一万回の素振りの後、木剣ではなく真剣での打ち合い。毎日のように三途の川の向こう岸では毎回変わる誰かの手招きする幻影を眺め、治癒魔法で無理やり現世に引き戻される日々。
だが、14歳になった俺の肉体と魔力は、訓練を受け始めた頃のひ弱な体と何よりひ弱な心とは比べ物にならないほど強靭に研ぎ澄まされていた。
その日の朝も、ひとしきり血反吐を吐くような鍛錬を終え、俺は父上とグレンと共に朝食の席に着いていた。
「リディル。少し、お前に話がある」
食後の紅茶を含みながら、父上がふと真顔で切り出した。
「覚えていないだろうが……実はお前には、幼い頃に結ばれた『許嫁』がいるのだ」
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。前世のゲームの知識にも、俺の曖昧な幼少期の記憶にもない設定だ。
「あまりにもお前の素行と評判が悪かったため、先方から暗に難色を示され、長らく棚上げになっていた話でな。……だが、お前が人が変わったように鍛錬に励み、領地のことまで学んでいるという噂が、どこからか向こうの耳に入ったらしい」
「それで、様子見というわけですか」
「ああ。近日中に、彼女が我が家を訪ねてくることになった。会うも会わぬもお前次第だが……結婚云々はさておき、同年代の貴族と交流を持つことも、今後のためになるかと思ってな。とりあえず了承の返事は出しておいた。どうする?」
同年代の貴族。来年の魔法学園入学に向けて、俺は未来の国を動かすための派閥を作る必要がある。ならば、ここで繋がりを持っておくのは決して悪くない手だ。
「分かりました。お会いしま――」
俺が頷きかけた、その時だった。
ガチャン、と。
背後で、ティーカップを下げる微細な音が、わずかに乱れた。
視線を向けると、壁際で控えていた専属メイドのエルザが、きつく唇を噛み締め、目を伏せているのが見えた。普段の穏やかな彼女からは想像もつかないほど、その横顔には隠しきれない深い悲哀と、身を切られるような痛みが滲んでいた。
(……エルザ)
俺の胸の奥が、チクリと痛んだ。彼女が俺に寄せてくれている秘めた想いは何となくはわかっていた。どれほど身分が違おうと、突然現れた「許嫁」の存在が、彼女の心をどれほど揺さぶるのか。
「……いや、やはり父上」
俺は慌てて言葉を遮った。
「今の俺には、グレンの修行以外に割く時間はありません。中途半端な気持ちでお会いするのも失礼ですし、この話は丁重にお断りし――」
「お待ちください、リディル様」
凛とした声が、食堂に響いた。
声の主は、他でもないエルザだった。一介のメイドが主人の会話に割り込むなど、本来なら厳罰ものの行為だ。
だが、エルザは真っ直ぐに顔を上げ、潤んだ翡翠の瞳で俺をしっかりと見つめ返してきた。
「お会いになるべきです。リディル様」
「エルザ、お前……」
「リディル様が目指しておられるのは、もっとずっと大きな未来のはずです。その方は、いずれ王立魔法学園で共に学ぶ方かもしれません。リディル様の『理想』を成し遂げるためには、味方は一人でも多い方が良いはずです」
彼女の手は、メイド服のエプロンをぎゅっと握りしめ、微かに震えていた。自分の心がひび割れることよりも、俺の未来を、俺が語った夢を優先しようとするその健気さに、俺は胸を打たれ、返す言葉を失った。
「……ククッ」
静寂の中、傍らに控えていたグレンが、わざとらしく喉を鳴らして笑った。
「見事な忠言ですな。坊ちゃん、ご自身の未来を想う者の言葉、無碍にはなさいますなよ?」
厳しい言葉選びとは裏腹に、グレンの隻眼はエルザの覚悟を面白がるように、そして称賛するように細められていた。父上もまた、咎めることなく静かに聞いている。
「……わかった」
俺は深く息を吐き出し、改めて父上に向き直った。
「お会いいたします。彼女と会い、自分の目で確かめてみます」
俺の言葉を聞いて、エルザは安堵したように、そしてほんの少しだけ寂しそうに微笑んで一礼した。
理不尽な世界を変えるため、誰よりも強くなると誓った。だが、その道を歩むことで、一番身近で俺を支えてくれる彼女に悲しい思いをさせてしまうこともある。
この胸の疼きを深く刻み込みながら、俺は再び決意を固めた。
新たな出会いに、俺は静かに心を身構えた。




