静寂の晩餐
グレンによる地獄の修行が始まってから数ヶ月が経ったある日。
俺は珍しく、父から二人きりでの夕食に招かれた。
広大な食堂の長いテーブルの端と端。静かな部屋に、銀の食器が触れ合う微かな音だけが響く。以前の俺なら、給仕の些細なミスに怒鳴り散らしていただろうが、今の俺は黙々と、しかしグレンに叩き込まれた完璧なマナーで食事を進めていた。
「……リディル」
不意に、静寂を破って父の深く落ち着いた声が響いた。
顔を上げると、テーブルの向こう側で、父がグラスを置いて俺をじっと見つめていた。その視線は、俺の包帯だらけの手や、服の下に隠しきれない無数の痣に向けられている。
「グレンから報告は受けている。毎日、死の淵を彷徨うような真似をしているそうだな」
「はい。彼には最高の指導をしていただいています」
「……なぜだ?」
父の顔には、純粋な疑問と、僅かな戸惑いが浮かんでいた。
「以前のお前は、剣を握るどころか、少し汗をかくことすら嫌がっていた。領民には横柄に振る舞い、自らの血筋だけを誇っていたはずだ。それが……なぜ、そこまで変われたのだ?」
探るような、恐れるような父の問いかけ。
俺はナイフとフォークを静かに置き、居住まいを正して、父の目を真っ直ぐに見返した。
「自分の愚かさと、この世界の歪さに気づいたからです」
誤魔化すことなく、俺ははっきりと口にした。
「血筋だけで尊び、他者を見下す。そんな薄っぺらい傲慢さの先に待っているのは、破滅と憎悪だけです。俺は、これ以上誰かが不条理に泣くような世界を見たくない。ローゼンベルグの次期当主として、そして一人の人間として、誰もが笑って暮らせる領地を、国を創りたいのです」
そして俺は、ずっと心に秘めていた言葉を紡いだ。
「それに……俺は、母上が命を懸けて産んでくれたこの命を、決して恥じない生き方がしたいんです」
「っ……!」
その瞬間、父の肩が大きく震えた。
厳格な当主としての仮面がひび割れた。
「あ、ああ……なんという……っ」
父は顔を両手で覆った。完璧な貴族である父が、他人の前で――ましてや息子の前でこんな姿を見せるなど、前世の記憶(ゲームの知識)を含めても一度もなかった。
「すまなかった……! 本当に、すまなかった、リディル……!」
立ち上がった父は、長いテーブルを回り込み、俺のそばに歩み寄ると、その大きな体で俺を力強く抱きしめた。
「私は、お前を見るのが怖かった。お前の顔に亡き妻の面影を見るたび、自分の無力さを呪った。立派な当主などと持て囃されながら、私は一人の父親として、お前を正しく愛し、導いてやることすらできなかった……最低の父親だ……!」
「父上……」
「お前をあんな傲慢な振る舞いに走らせたのは、他でもない私の責任だ。それなのに、お前は自らの足で立ち上がり、歩き出した……!」
父の腕から伝わる、痛いほどの力と温もり。
そこに嘘偽りは一切なかった。この人はずっと、自分自身の不甲斐なさと戦い、一人で苦しんでいたのだ。
「謝らないでください、父上。俺はもう、過去を振り返るつもりはありませんから」
俺は痛む腕をそっと持ち上げ、父の背中に回した。
その言葉に、父は何度も頷き、やがて顔を上げて俺の両肩をしっかりと掴んだ。その瞳には、かつての迷いや逃避の影は一切なく、ローゼンベルグ侯爵としての力強い光が宿っていた。
「リディル。お前の覚悟、そして真っ直ぐな心……確かに受け取った。もはや何も迷うことはない。お前の歩む道がどれほど険しかろうと、ローゼンベルグ家の全霊をもって、私がお前の盾となろう」
「……ありがとうございます。父上」
長い間、この屋敷の奥底で凍りついていた親子のわだかまりが、春の雪解けのように溶け去っていくのを感じた。
最強の執事であるグレンの指導。
献身的に俺を支えてくれるメイドのエルザ。
そして今回、王国屈指の権力と実力を持つ『父』という、これ以上ない強力な後ろ盾を得た。
入学までの七年。俺の戦いは、決して孤独なものではなくなった。
胸の奥に熱い親子の絆を感じながら、俺は改めて、未来を変えるための長く過酷な道のりを見据えた。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




