地獄の始まり
その日から、俺の日常は文字通りの『地獄』へと変わった。
修行はまさに人智を超えていた。
あの試験の時以上の重力魔法で体重の三倍の負荷をかけられながらの30キロにも及ぶ山中走破。「坊ちゃん、足が止まっておりますよ」と涼しい顔で紅茶を嗜むグレンから、容赦のない魔法の弾幕が飛んでくる。木剣でのモンスター討伐。魔力が完全に枯渇して気絶するまで魔力の操作を強いられ、倒れれば回復魔法で叩き起こされる。
「ほらほら、魔力の底が尽きてからが本番ですよ! 民草の苦しみを背負う覚悟があるなら、この程度の地獄、笑って耐えねば何とします!」
完璧な執事の微笑みのまま鬼畜の所業を繰り出すグレンに、俺は泥水に顔を突っ込み、血反吐を吐きながらも這いつくばって喰らいついた。
そんな極限状態の毎日の中で、唯一の救いとなる時間があった。
「……リディル様、またこんなにお怪我をされて……。すぐにお湯で拭きますね」
俺の専属メイドであるエルザだ。年の頃は俺より二つ上の十歳。
銀糸のような美しい髪と、翡翠の瞳を持つ彼女もまた、以前の俺をひどく恐れ、常に目を伏せて震えていた。だが、泥まみれになって修練に打ち込み、必死に喰らいつく俺を見、死にそうになっていながらも何がしてもらったら必ず感謝の態度とと言葉を発する俺に、いつしかその瞳には戸惑いではない、別の柔らかな光が宿るようになっていた。
夕暮れ時、自室のベッドに倒れ込んだ俺の腕に、エルザが冷たいタオルを当て、手慣れた様子で治癒魔法をかけてくれる。
「すまない、エルザ。いつも迷惑をかけるな」
「とんでもありません。私……リディル様が、ご自分のためだけでなく、皆が笑って暮らせる領地にするためにこんなに頑張っておられること、分かっていますから」
そう言って微笑むエルザの頬は、窓から差し込む夕日のせいだけではなく、ほんのりと赤く染まっていた。彼女の小さな手が、俺の傷だらけの手にそっと重なる。その温もりに、限界まで張り詰めていた心の糸が少しだけ緩むのを感じた。
「さて、と……」
俺はエルザに優しく微笑みかけ、全身の激痛を意志の力でねじ伏せて立ち上がった。
「もうすぐ夜の修行の時間だ。グレンの奴、今度は『目隠し状態で魔獣の群れと戦いながら、マナー通りにフルコースを食べる』なんて頭の狂った訓練をするって言ってたからな」
「えっ!? そ、そんな無茶な……! 私、すぐにお怪我の薬と包帯を多めに用意しておきます!」
慌てて部屋を駆け出していくエルザの健気な後ろ姿を見送る。
窓の外を見上げれば、静寂に包まれた満天の星空が広がっていた。
入学まで、あと七年。
泥に塗れ、血を吐き、何度倒れても必ず立ち上がる。自らを根本から変革し、歪んだ世界に希望をもたらすために――俺は再び、あの悪魔のような執事が待つ夜の訓練場へと足を踏み出した。
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