精神と時の部屋?
嵐のような公爵令嬢の馬車が見えなくなるや否や、俺は背後から降ってきた悪魔の囁きに肩を揺らした。
「さて、若。美しいお嬢様との歓談で、随分といい休息になりましたな。では、魔の森の奥地へ、本日のナイトハイクと洒落込みましょうか。今日はブラッド・ウルフの群れを相手にステップの反復練習です」
「……ああ、わかってるよ」
グレンの容赦のない言葉と共に、再び全身に五倍の重力魔法がのしかかる。ズン、と内臓まで圧迫されるような重圧に耐え、俺は泥だらけの道着のまま魔の森へと歩みを進めた。
スカーレットの襲来(とあえて言わせてもらう)は、結果的に俺の破滅フラグを一つ折ったかもしれないが、来年控えている『王立魔法学園』の入学に向けたタイムリミットが伸びたわけではない。原作通りなら、学園には俺の命を狙う刺客や、どう足掻いても関わらざるを得ない厄介なイベントが山ほど待ち受けているのだ。
森から生還し、ボロボロになった俺を待っているのは、エルザの献身的なケアだ。
「リディル様、お疲れ様でございました。すぐにお湯の準備を……っ、またこんなにお怪我をされて!」
包帯を巻き、薬草を塗るエルザの指先は微かに震えている。俺が悪評に塗れていた頃から見捨てずにいてくれた彼女には、頭が下がる思いだった。
「大した傷じゃない。グレンの治癒魔法もあるしな。それよりエルザ、夜食と……例の参考書を用意しておいてくれ」
休む間などない。学園の試験は実技だけでなく、筆記も存在する。前世で詰め込み教育と受験戦争を生き抜いた現代日本人の知識があるとはいえ、この世界の歴史や魔法理論の暗記は必須だ。肉体が悲鳴を上げていてもも、脳を休める理由にはならない。
一日が、文字通り一瞬で過ぎ去っていく。
そんなギリギリのスケジュールを組んでいる俺にとって、最大の誤算が発生した。
「ごきげんよう、リディル様! 近くまで来る用事がありましたので、寄らせていただきましたわ!」
「……ようこそおいでくださいました、スカーレット嬢」
週に一回。時には週に二回、あの勝ち気な公爵令嬢が我が家にやってくるようになったのだ。
「近くまで来た」と言っても、ヴァルハイト公爵領からここまでは馬車で半日はかかる。完全に確信犯だ。手合わせの続きを要求されたり、学園の予習について議論を吹っかけられたり。無視して追い返すわけにもいかず、俺はその度に鍛錬に費やせるはずの時間を彼女の相手に費やさざるを得なかった。
婚約破棄が保留になったのは良いが、この強烈なアプローチは正直、今の俺には疎ましさを感じてしまっていた。
「……はぁ。スカーレット嬢の相手をして、森で死にかけて、机に向かって。全く時間が足りない。一日が三十時間、いや四十時間あればいいのに」
ある夜、分厚い魔導書から顔を上げ、俺は思わず愚痴をこぼした。
淹れたての紅茶をテーブルに置こうとしたエルザが、同情するように眉を下げる。
しかし、部屋の隅で魔石を磨いていたグレンは、事もなげに口を開いた。
「四十時間ですか。できますよ、若」
「……は?」
「ですから、時間を延ばすことです。正確には、外界よりも時間の進みが極端に遅い場所が、このグランツ侯爵領内の外れに存在します。『時の岩屋』と呼ばれる古代遺跡ですな」
精神と時の部屋……! 前世の記憶にある超有名漫画の修行場が、まさかこの世界にもあるとは。
「そんな便利な場所があるなら、なんで今まで黙ってたんだよ!」
身を乗り出す俺に、グレンはニヤリと口角を吊り上げた。
「便利なだけなら、とっくに観光名所か王家の直轄地になってますよ。そこが手付かずなのは、岩屋の最深部に『時喰いの番竜』――純血の古竜が巣食っているからです。岩屋の恩恵を受けるには、奴を倒し、その核を岩屋の制御盤に組み込まねばなりません」
ドラゴン。
前世のゲーム知識が、その単語の絶望的な響きを思い起こさせる。推奨討伐レベルは計り知れない。今の俺の実力では、勝率はない。そして、負ければ間違いなく骨ひとつ残らず食い殺される。
「いけません、リディル様!!」
悲鳴のような声が響いた。振り返ると、エルザが青ざめた顔で俺の袖をきつく握りしめていた。
「いくらリディル様がお強くなられたとはいえ、古竜だなんて……! 死んでしまいます! 学園の入学なら、今のままでも十分に……っ!」
「エルザ……」
震えるメイドの小さな手。彼女の言う通りだ。これ以上の無理は、命を捨てるようなもの。
だが、俺の脳裏には、学園で待ち受ける理不尽な破滅のシナリオと、勝ったとはいえスカーレットのような規格外の力を持った連中の顔が浮かんでいた。
ここで立ち止まれば、いずれ大事なものを守れなくなる。
俺は、袖を掴むエルザの手に自分の手を重ね、ゆっくりと、だが力強く解いた。
「心配をかけてすまない、エルザ。でも、俺にはどうしても『時間』が必要なんだ」
「リディル様……」
「グレン。明日の朝一番で出立する。案内しろ」
「御意。しかし、私の力は当てにせぬよう」
「わかっている、自分だけでなんとかして見せる」
「いやはや、狂気すら感じるその向上心。つくづく、教え甲斐のあるお方だ」
グレンの楽しげな笑い声と、エルザの押し殺したような嗚咽が響く夜。
俺は破滅の運命を叩き潰すための、次なる死地――『時の岩屋』へと歩みを進める決意を固めたのだった。
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