本懐
研究継続に関する所見。その項目だけが、まだ埋まっていない。
王城内、軍務局魔導兵装審査室。
ラウクヴィーク基地の視察から、既に一週間が過ぎていた。
ダグアーラは視察報告書を前に、ペンを握っている。
窓の外には濯風月の曇天が広がり、庭園の雪は植え込みの陰にだけ残っていた。
暖房の行き届いた室内でも、机の縁は冷たい。
去年の秋。飛翔型竜機兵の開発成功に軍は快哉を叫び、その功績を評価した。
開発と改良の双方を知る者として、魔導兵装審査官への配置が決まったのは、その後。
今も技術将校として、王城で新式兵装の性能と運用適性を評価している。
他者が乗る機体へ意見を付す仕事は、かつての研究開発に似ているようで、まるで違った。
書類の上で機体を判断するたび、指先が操縦桿の感触を探す。けれど、そこにはない。
飛翔型開発者である自分を守るための措置だと理解はしている。
それでも、机の縁は操縦桿より冷たかった。
ダグアーラは、改めてエンドリフギルの試験記録へ目を落とした。
高度二千メートル。飛翔鎧三機との交戦。そして、勝利。何度読み返しても結果は変わらない。
同時に、急制動時の同調ノイズも消えはしない。
幼精核の補正によって機体が持ち直したことと、搭乗者へ負荷が掛からなかったことは同じではない。
限界高度へ移行する前に、確かめるべき課題だ。
(僕の指摘は、間違っていない)
そう確認した途端、別の声が蘇る。
『その知見を、エンドリフギルへ活かせませんか?』
ペン先が紙へ触れたまま止まる。インクが、小さく滲んだ。慌てて持ち上げたものの、黒い染みは残った。
求められたのは果たして、飛ぶ許可だったのか。
いや。少なくとも、彼女はそう言わなかった。
部屋に響く扉のノックが、思考を断ち切る。
入室を許すと、薄い笑みを口端に乗せたナイジェルが姿を見せた。
護衛は一礼し、机上へ視線を落とす。
開いた報告書にも、滲んだインクにも、何も言わなかった。
「お邪魔でしたか?」
「いえ。何かありましたか?」
「視察報告の件です。取りまとめは明朝とのことですが、御所見はいかがでしょう?」
ダグアーラの手が報告書の上を滑った。
空いた項目を覆いかけたところで、自分の手元へ目が留まる。
ナイジェルは返答を待っていた。
「……もう少し、時間をください」
掌を退けても、ペンは持ち直せなかった。
ナイジェルが僅かに首を傾げる。確認を求めるような仕草だった。
「研究継続には慎重であるべき、と。殿下の御判断は、既に示されたものと思っていましたが?」
格納庫で口にした言葉が、審査官としての結論へ置き換わっている。
そんなつもりではなかった。そう言いかけて、ダグアーラは唇を閉じた。
少なくとも、あの場で自分自身が区別してはいなかった。
「機密に関しては、殿下に落ち度はございません。その件まで御自身の責任として、お考えになる必要はないかと」
「彼女は、最初から機密を求めたわけではありません」
ナイジェルは口を閉じた。異を唱えず、続きを待っている。ダグアーラは試験記録へ視線を戻した。
「知見を活かせないか。そう尋ねたんです」
「ですが、その後は方式の違いまで――」
「僕が、それを理由にしたからです」
方式が違う。それは事実だ。
だが、明かせないことの手前で、何を渡せるのか。そこを考えなかった。
ダグアーラは紙束の端を揃える。一枚が指へ引っ掛かった。急制動時の魔力変動を記した観測表だった。
同調率が落ちた時点と、幼精核の補正が入った時点。
ペンを取り直し、その二つへ印を付ける。
この間、彼女は操縦桿から何を感じていたのだろう。数値を追うだけでは、その感触までは分からない。
「懸念を、撤回するつもりはありません」
「ええ。御懸念と、技術的な助言を分けてお伝えになってはいかがでしょう」
ダグアーラの手が、一瞬止まる。自分の言葉が弁明のようにも聞こえた。
ナイジェルは訂正に逆らわず、穏やかに頷いている。
「ヨルンナ技官を通せば、あちらも落ち着いて検討できるかと。直接お話しになると、どうしても御自身の判断を守ろうとなさるでしょうから」
「僕が、彼女を身構えさせると?」
「先日のことがございます。殿下も、御本意ではない言葉を口にされたのではありませんか?」
『勝手にしてください』
口端から零れた言葉を思い出す。
否定はできなかった。ダグアーラが黙ると、ナイジェルも言葉を切った。
返答を急かさず、考える時間を与えるような間だった。
「しばらくは技官同士にお任せになる方が、双方のためにもなるでしょう」
連絡は担当者を通して。訪問は護衛の調整が済んでから。
どれも正しい。正しい手順を重ねるほど、テテュスと直接話す用事だけがなくなっていく。頼んでいないところまで、話が整えられていた。
ダグアーラは顔を上げる。鋭い眼光を突き刺すも、護衛はいつもの穏やかな表情を浮かべていた。
言動には彼なりの思惑が隠れている。しかし、それ以上は問わなかった。
「どう伝えるかは、内容を整理してから決めます」
「承知しました。必要な手配は、私にお申し付けください」
ナイジェルは躊躇いなく一礼した。
押し返されたという様子すら見せない。ダグアーラは窓へ視線を逃がした。
庭園の向こうには、王城の外壁が見える。
これまで研究所へ赴く日程を絞ることも、工房から帰城を促すことも、自分を守るための措置だった。必要だと、自分でも理解している。
それでも、ヘイズルフリングルの開発時を思い出す。
術式の改良が進みかけるたび、あと少しだけ、と頼んでいた。
紙に記された成功を待つより、自分の手で応答を確かめたかった。
『私はもう、少佐の部下ではありません』
不意に、テテュスの声が重なる。
今の彼女に、上官として返答を求めることはできない。
けれど彼女は、自分の知見を求めて声を掛けた。命令を待っていたのではない。
「殿下。御所見は、いかが致しましょう」
ナイジェルの声に、窓から机へ視線を戻す。ダグアーラは開いたままの紙束を、手元へ引き寄せた。観測表へ付けた二つの印が、目に入った。
「取りまとめには、僕から届けます。明朝までに」
「承知しました。では、そのように伝えて参ります」
ナイジェルは一礼して踵を返した。
扉が閉じ、静けさが戻る。
ダグアーラは椅子の背へ預けかけていた身体を起こし、白紙を一枚引き寄せた。
観測表の印を見ながら、確認手順を書き出していく。
同調率低下直前の操縦入力。
幼精核による補正開始までの時間差。
搭乗者が感知した違和感の部位と時点。
姿勢制御術式の介入量。
限界高度へ移る前に、現在の高度帯で再現試験を行う。
機密へ触れなくても、問いは立てられる。記録で足りなければ、条件を絞って動かし、確かめればいい。そこまで書き進めて、ペンが止まった。
これを渡せば、彼女は次の試験へ進むだろう。
(いや……)
ダグアーラは小さく息を吐く。
渡さなくても、テテュスは止まらない。成功するその日まで、あの機体を空へ上げ続けるだろう。
自分が関わらないことを、安全になったことと取り違えてはならなかった。
自分に減らせる危険があるなら、まずそれを減らす。
危険を減らすことと、彼女の代わりに進退を決めることは違う。
ダグアーラは末尾へ、搭乗者本人への聞き取りを要する旨を書き加えた。
ペン先を上げ、報告書の横へ置く。
謝ることも、彼女が何と答えるかも、ここへ書くことではなかった。
『それでは殿下。儂と共に、これからの話をしようではありませんか?』
ふと、別の声が脳裏をかすめる。
ゲズゴール将軍。以前、彼は周囲の思惑を退けた上で、ダグアーラ自身へ問いを返した。
お前は、どうしたいのかと。
もう、部下ではない。ならば、今の自分は何者として彼女の前に立ちたいのか。
命令する者でもない。飛ぶことを、許す者でもない。
ダグアーラは報告書へ視線を落とした。
研究継続に関する所見。
空いた項目へ、ペンを下ろす。
現行機での観測を継続し、同調ノイズと搭乗者負荷の関係を追加確認する必要がある。
限界高度への移行については、その結果を踏まえ、改めて検討すべきである。
書き終え、ペンを置く。
軸を挟んでいた中指の腹に、深い窪みが残っていた。
力を込めていたことにも、気付いていなかった。けれど、書いた所見へ取り消しの線は引かない。紙を揃え、確認事項を記した別紙を重ねる。
先日の言葉を詫びる時には、この紙の後ろへ隠れることはできないだろう。
窓の外では、曇天の切れ間から細い青が覗いていた。
次に彼女の前へ立った時、何と言われるかは分からない。
だとしても。その答えを聞く前に立ち去ることだけは、もうしない。




