譲れないもの
「よろしいのですか? お休みにならなくて」
「お気遣いなく。普段から鍛えていますので」
「そう、ですか……」
会話が途切れた。
格納庫の奥で、整備兵の工具が小さく鳴る。二人の周囲だけ、空気が切り離されたように冷えていた。
「先ほどの発言ですが」
ダグアーラの声が僅かに沈む。
「あなたを責めるつもりはありませんでした」
「分かっています」
嘘ではない。
彼が指摘した急制動時の負荷は、テテュス自身も覚えている。操縦桿から返る感触が細くなり、リョースの補正がなければ機体の反応は遅れていた。
それを見抜いたのがダグアーラだった。
(だから、厄介なんだ)
何も知らない者からの否定なら、試験結果を示せばいい。だが彼は、飛ぶことの喜びも、墜ちることの怖さも知っている。
「少佐の指摘は正しいです。機体の負荷も、同調ノイズも、決して無視はできません」
「なら――」
「それでも、機体を降りるつもりはありません」
言葉が、思ったより鋭く出た。
ダグアーラが機体から目を離す。横顔へ向けられた視線を感じても、テテュスは前を見続けた。
「どうして、そこまでして飛ぼうとするのですか?」
「リョースと、この機体を守るためです」
詰問に答えた瞬間、胸の内にあったものが形を持った。
誰かの命令でも、軍人としての義務でもない。
もし自分が飛ばなければ、リョースは実験対象として切り離され、エンドリフギルは危険性だけを理由に封じられるだろう。
それを黙って見ているつもりはない。
「少佐は、王立研究所で竜機兵を限界高度まで飛ばしたのでしょう?」
「ええ……」
「その知見を、エンドリフギルへ活かせませんか?」
向き直ると、ダグアーラの返答が途切れた。
顔を伏せたまま拳を握る。白い手袋に深い皺が寄っていた。
「ヘイズルフリングルと、エンドリフギルでは方式が違います」
「具体的に、何が違うのですか?」
「それは……」
開きかけた唇が閉じる。
格納庫の入口にいたナイジェルが速足で近付いて来る。
「殿下。それ以上は」
ナイジェルが二人の間へ割り込む。声量は低い。それでも、工具音を縫って明瞭に届いた。柄に手を掛けてはいないが、拒絶の雰囲気が伝わって来る。
軍事機密。冷ややかに見咎める視線から、そう推測する事ができた。
「分かっています。下がってください、ナイジェル」
ダグアーラは視線を逸らさずに命じた。護衛は一礼しても警戒を解かなかった。
「少佐は、軍人ですからね」
「……はい。ここで明かせることではありません」
ダグアーラの答えは正しい。
その正しさが、会議室で積み上げられた言葉と同じ重さで胸へ沈む。
テテュスは初めて彼を正面から見た。
「こちらの欠陥は並べられるのに、そちらが飛んだ理由は話せないと?」
「その言い方は卑怯です」
「卑怯? 外野から、事情も鑑みず一方的に降りろと言うのは、正当な権利だとでも?」
「そんなことは言っていません」
「同じことですっ」
テテュスは初めて声を荒げた。息を吸った途端、胸骨の裏で空気が止まった。
押し広げるように掌を当てても、呼吸は深くならない。次の言葉だけが、浅い息を押し退けて喉まで昇ってきた。
「私はもう、少佐の部下ではありません。命令する権利など無い!」
「命令ではありません!」
ダグアーラの怒号が格納庫へ響いた。整備兵の手が止まり、工具の音が消える。
耳が痛い静寂の中に、互いの荒い呼吸だけが残った。ダグアーラの拳は、まだ固く閉じられている。
彼が一歩踏み込んだ。
「あなたは飛べるとなれば、また自分を使い潰すでしょう。危険も痛みも、リョースを守るためなら自分だけで引き受けようとする!」
奥歯が噛み合い、耳の奥で血流が大きくなった。
退くつもりはないのに、砂を噛む靴底が滑る。腕の中でリョースが縮こまり、爪先だけが袖へ引っ掛かった。
その小さな抵抗が、テテュスの足をその場へ縫い留める。
「……結局、私を信用していないのですね」
「違う!」
顔を顰めて頭を振る。見苦しいと、テテュスは目尻を吊り上げる。
「何が違うのです。少佐は今も、私を守られるだけの小娘だと思っている!」
言い切った瞬間、ダグアーラの拳が開いた。白い手袋に刻まれていた皺が、一本ずつ消えていく。
怒りを解いたようには見えなかった。力を込める理由を失った手だった。
その反応を見て初めて、テテュスは言い過ぎたと悟った。
「僕は――」
声が一度、喉に詰まる。焦燥が首筋に冷や水を浴びせる。
「僕は、あなたがまた帰ってこなくなるのが怖いんです!」
格納庫の空気が震えた。
腕の中でリョースが縮こまる。テテュスは抱き締めていた指を開いた。支えを失った小さな躯体が僅かに沈み、慌てて反対の掌を差し入れる。
反論しようと息を吸って、声にならなかった。
彼が恐れていることを、知らなかったわけではない。知っていたからこそ、正面から見ることを避けていた。
その恐怖を受け入れれば、自分が空へ上がるたびに彼を傷つけることまで認めなければならない。
(私は、何を言わせたかったんだ……)
許可が欲しかったわけではない。
心配するなとも言えない。
ただ、遠ざけられたくなかった。リョースからも、エンドリフギルからも、空からも。
「私は……」
口を開いても、その先が続かなかった。
ダグアーラの上げかけた手が、テテュスへ届かないまま身体の脇へ落ちる。視線もまた彼女を離れ、エンドリフギルの足元へ沈んだ。
次に息を吐いた時、その肩から張り詰めていたものが消えていた。
「もう、いいです……」
低い声だった。
「待ってください。私はただ――」
「何を言っても、あなたは飛ぶのでしょう?」
向けられた笑顔は哀しみに満ちていた。
次の試験を諦めるとは、どうしても口にできない。否定できなかった。
その一瞬の迷いを、ダグアーラは見逃さなかった。
「なら、勝手にしてください」
彼が踵を返し、背を向けた。
並んでいた二人の影が、整備灯の下で離れる。
テテュスの足が半歩だけ前へ出た。巫女装束の裾が脛へ絡み、そこで止まる。
その背中に呼び止める言葉も、伸ばすべき手も見つからない。
そのまま靴音が遠ざかり、ナイジェルの足音がその後を追った。
彼の知見を欠いたまま、限界高度へ至る道を探さなければならない。
格納庫に残されたのは、機兵架に繋がれたエンドリフギルと、腕の中のリョース。そして、掴むことも手放すこともできなかった自分だけだった。
夕暮れの光は、真紅の胸部まで届いている。
それでも機体を縛る鎖は、先ほどより太くなったように見えた。




