開発を巡って
巫女装束の袖は、格納庫の油の匂いにひどく似合わなかった。焚き染めた白檀の香りが、重たい金属臭に塗り潰される。
濯風月(三月)初旬。ラウクヴィーク基地格納庫。
外では雪解けの水が軒先から細く落ちている。格納庫の大扉は半分だけ開き、その隙間から夜明け前の空が覗いていた。東の稜線だけが薄い錫色にほどけ、まだ陽は昇らない。星は消えかけているのに、空の底には夜の青が残っている。
早朝の風はまだ冷たい。ただ、真冬のように皮膚を刺す硬さはなかった。地熱を含んだ湿った空気が床近くに薄く溜まり、油と金属、焼けた砂の匂いを重くしている。
整備灯の白い光の下で、幼精搭載式飛翔型は沈黙していた。
真紅の装甲は磨き抜かれ、昨日の試験で被った砂塵は見る影もない。十メートル級の躯体は機兵架に固定され、物言わぬまま地面を睥睨している。
テテュスは白い子機を抱えたまま、その巨体を見上げていた。
腕の中で、リョースの毛が僅かに揺れる。
喋りはしない。それでも胸元に預けられた小さな温もりと重みだけが、今ここにいると告げていた。
まもなく、ダグアーラが来る。
その事実を思い浮かべた瞬間、指先が子機の毛を強く掴みかけた。慌てて力を抜く。
冬の名残を含んだ空気を吸うと、肺の奥だけが冷えた。
リョースを守りたいのか。
エンドリフギルを守りたいのか。
それとも、彼に会った時、自分が何を言ってしまうのかを恐れているのか。
分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしている。
エンドリフギルとリョース、そして自分。
霊機人。その三つで空へ刻んだ軌跡を、誰の理屈にも踏み潰させない。
テテュスは腕の中の子機を抱え直した。強く抱き締めるのではない。小さな躯体を潰さないだけの力で、確かめるように支える。
「大丈夫」
それ以上は、声にしなかった。
〇 〇
会議室の空気には、まだ高空の冷えが残っていた。
ラウクヴィーク基地、第二会議室。
格納庫での視察を終えた一同は、長卓を挟んで向かい合っている。壁際の暖房管は熱を放っていたが、テテュスの指先にはまだ操縦桿の感触が残っていた。
高度二千メートル。薄い大気。飛翔鎧三機を相手取った戦闘演習。
そして、勝利。
紙の上では、ただの結果に過ぎない。だが身体には、違う形で残っている。
急上昇のたびに肺の奥が冷え、劫火の推進器が姿勢を立て直すたび、背骨へ硬い圧が返った。敵機の魔弾が結界を掠めた瞬間には、操縦席の壁が細かく震えた。
最後の一機は、背後から落ちてきた。高度を捨てた奇襲。
テテュスが反応するより早く、操縦桿の奥でリョースが機体を逃した。真紅の巨体は半身をずらし、敵の刃を肩装甲で受け流す。その一拍後、劫火の噴炎が空を踏み、エンドリフギルは斬撃の間合いへ滑り込んだ。
そのすべてを、機体は受け止めた。
少なくとも、テテュスには落ち度など思い当たらなかった。
テテュスは巫女装束で席に着いていた。膝の上には白い子機。リョースは丸くなったまま動かない。
試験中、計器盤中央に嵌め込まれた宝珠は、呼吸に似た間隔で静かに明滅していた。命令に従ったのではない。ただ、機体が傾くより早く、こちらの乱れを拾って返してくる。
その小さな応答が、二千メートルの空で操縦桿の奥に残っていた。
「本日の演習結果です。高度二千メートルにおける対飛翔鎧戦闘。上昇、水平機動、急制動、近接回避、術式射撃への防御反応。いずれも継続運用の基準を満たしています」
試験結果が記された紙束を片手に、ヨルンナは軽い調子で謳い上げる。資料をめくる指先だけが、妙に楽しげだった。
「しかも、勝っている。相手は現役の飛翔鎧操縦者三名。一機が上を押さえ、一機が背後へ回り、もう一機が銃撃で進路を削った。ある程度の安全考慮はありましたが、高度二千メートル上で、包囲は確かに殺意の形をしていた」
ヨルンナはそこで、口角を上げた。
「その輪を、エンドリフギルは正面から食い破った」
「結果だけを見れば、見事だろう」
室内に響いたのは、視察団側の軍人の野太く硬い声。明朗な結びの句に冷や水が浴びせられた。
「だが、操縦者を替えて再現できるのか。命令系統は誰に属するのか。個人との関係に依存するなら、軍装備とは呼べん」
問いは正しい。正しいからこそ、テテュスの胸の奥へ冷たく沈んだ。
「ええ。確かに、再現性は課題です」
ヨルンナは嬉しそうに頷いた。
「だから観測する。条件を増やす。分からないから止める、では研究局の看板が泣くでしょう?」
軽い声なのに、逃げ道だけを塞いでいく。
テテュスは彼女の貼りつけた笑顔に、冷徹な計算を見た。
「協調という言葉で済ませるには、危険が大きすぎる」
今度は魔導師の男が口を開いた。
「幼精には自我があり、特定の搭乗者にのみ高い反応を示す。その理由を究明せず、兵器に転用するのは拙速では?」
向けられた懐疑の視線が、テテュスの膝へ落ちる。
「幼精核が搭乗者個人にしか応じないなら、それは兵器ではなく人質ではありませんか?」
呼吸が、一拍止まった。高空の風より、その言葉の方が深く刺さる。
守りたかったのは誰だったのか。
今朝、格納庫で答えを出せなかった問いが、他人の口から刃の形で戻ってくる。
リョース。
エンドリフギル。
自分。
三つで刻んだ軌跡のどこかに、その答えはあったはずだった。
腕の中の子機が、僅かに身じろぎした。
「言葉が過ぎますねぇ」
ヨルンナの声が、少しだけ低くなる。細めた目の奥は笑っていなかった。
「今日の演習で、その“人質”とやらは搭乗者を死地へ引きずり込むどころか、敵弾の射線から引き剥がした。数値にも記録にも出ています。倫理を語るなら、まず観測結果を踏んでからにしてほしいものです」
「ヨルンナ技官」
ダグアーラが静かに制した。その声だけで、会議室の空気が締まる。
テテュスは長卓の向こうを見た。今の彼は王族の正装に身を包み、資料へ視線を落としている。格納庫でエンドリフギルを見上げていた時、彼はほとんど何も言わなかった。演習中の通信も、必要最低限だった。
だからこそ、今の沈黙が怖かった。
「本機の成果は認めます。刷新された駆動術式、竜骨フレームの荷重処理、幼精核との同調補正。高度二千メートルでの戦闘機動に耐えた意義も、極めて大きい」
ダグアーラはそこで一度、言葉を切った。
「ですが、搭乗者の負荷が大き過ぎます」
テテュスの指が、子機の毛に触れたまま止まる。
「急制動の瞬間、同調率が一拍だけ落ちています。機体は持ち直した。幼精核も補正した。ですが、その間、負荷は搭乗者の神経へ直接逃げている」
彼の声は責めていない。だから余計に、喉の奥が狭くなった。
「エンドリフギルが『紅銀の巫女』を前提にしていることを考えれば、同調ノイズを抱えたまま限界高度へ移行するのは現実的ではありません」
「……っ」
息が詰まる。
彼が止めようとしている理由は、分かっていた。
それでも、その言葉が足首へ絡みつく鎖に聞こえた。
子機を抱く指に力が入る。すぐに、緩めた。
「課題があることは、承知しています」
気が付けば、立ち上がっていた。
放った声は、思ったより硬く出た。会議室の耳目が集まり、空気が静まり返る。
「だが、未完成であることと、止めるべきであることは同じではない筈です」
腕の中で、リョースが僅かに身じろぎする。
「私たちは、まだ墜ちていない」
言い切った。遅れて、喉の奥が乾いた。
自分の声のはずなのに、耳の奥では他人の声のように反響している。掌に、朝の格納庫で子機を掴みかけた指の感触が蘇った。
視察団の数人が、わずかに眉を動かした。
ヨルンナだけが、待っていましたとばかりに声を張り上げる。
「いやはや、全くもってその通り!」
立ち上がり、仰々しく両手を広げた。
「そこで是非、知恵をお借りしたい。ダグアーラ殿下。竜機兵に限界高度を踏破させたその知見を使えば、必ずやエンドリフギルも同じ高みへ飛躍できるでしょう」
ダグアーラはすぐには答えなかった。
卓上の飛翔記録へ落とした指先が、紙の端を僅かに押さえる。
拒絶ではない。 だが、受け入れるにはまだ何かを飲み込めていない沈黙だった。
テテュスはその横顔を見て、胸の奥が薄く冷えるのを感じた。
守ろうとしている。彼は、今も。
「では、条件を詰めようじゃないか」
ヨルンナだけが、愉快そうに目を細めた。
「中止か継続か、なんて雑な話ではなくね」
その一言で、会議室の空気がわずかに動く。
口論は終わり、交渉が始まった。
窓の外では、朝の光が格納庫の屋根を薄く照らし始めていた。
夜は明けた。けれども、空はまだ白く冷たい。
テテュスは膝の上のリョースを見下ろし、指先の震えを隠すように毛並みを撫でた。
次に空へ上がる時、この手は誰の条件を握っているのだろう。




