遥か高みから
焦燥に追い立てられ、スコルは浅い呼吸を繰り返す。いつもより、コックピット内の空気が薄い。そんな錯覚にすら囚われていた。
「くっ……」
現在、高度二千メートル。冬の空は、嫌になるほど澄んでいる。乾き切った青の奥まで視界が抜け、距離の感覚だけが薄くなる。雲の影だけが青く沈み、白い地表は陽光を返して画面の端を焼いた。
硬く乾いた風を翼が切り裂くたび、冷えた刃のように装甲の継ぎ目へ入り込む。白亜のフルムハルグは、青銀へと偏光する細身の躯体を傾け、四枚の滑空翼で上空の薄い大気を掴んでいる。
凍える風が装甲に爪を立て、翼の付け根から荷重が操縦席の床へ返った。機体は軽やかに応える。だが、十メートル級の骨格が進路を変えるたび、遅れて質量が身体を追い越していく。
それでも、振り切れない。
「しつこいなぁ、もう……っ」
スコルは笑おうとして、失敗した。背後から二つの光が追ってくる。
ブリクスチャルナ。星の名を与えられた二基の小型浮揚砲台は、花弁を思わせる砲身を開いたまま、フルムハルグの背後へ貼り付いている。
速いわけではない。なのに、離れない。
スコルが右へ逃げれば、右の空が沈む。下へ落とせば、腹の底を押し返す圧が来る。上へ抜けようとすれば、高みから降る閃光が機首を押さえる。
追われているのではない。機体が翔ける空を、先に削られていた。
上空が瞬く。スコルは苦く顔を歪め、滑空翼を翻す。降ってきた【貫滅】の光線が、展開した結界を掠めて過ぎた。直撃はしていない。それでも結界の障壁が削られ、細い振動がコックピットの壁を伝う。
冷え切った寒風の中で、虚空を焦がす熱だけが嫌に生々しい。
ネイラもこれに負けた。その事実が、奥歯の裏に苦く残る。
スコルはもう一度、天を仰いだ。乾いた冬空のさらに上、高度三千メートル。相手の機体、ヘイズルフリングルは、そこにいた。
術式の高度限界から睥睨する本体は、ほとんど動かない。それが腹立たしかった。浮揚環の光が淡く脈打つたび、清澄な空が一段重くなる。
フルムハルグの翼は生きている。だが、翼が掴むはずの空だけが先に奪われていた。
見上げさせられている。それが、一番腹立たしい。
あと千メートル。この四枚の翼では、その高度差を正面から登り切れない。
「違うッ」
頭を振って、スコルは吼えた。頭を押さえられ、這いずり回るしかない窮状を認めた瞬間、本当に負ける。まだ終わってもいなければ、勝敗も決していない。
彼女は操縦桿を切った。フルムハルグが弧を描き、機体の腹を空へ晒す。固定帯が肩へ食い込み、腰が座席へ押し付けられた。
二基のブリクスチャルナが追従する。後方で花弁の砲口が光る。焦れてきた。そう読んだ瞬間、スコルの呼吸が細く整った。
ならば、落ちるしかない。落下で速度を作り、速度で角度を変える。
白亜の機体が斜め下へ落ちる。自由落下を推力に変え、硬い冬の大気を引き裂いて加速した。眼下の雪原が猛烈な勢いで近付く。白く凍った地表が、刃物の反射のように目を刺した。
高度が削れる。胸が浮く。機体の重量が遅れて背中を押し、操縦席の支柱が細かく震えた。画面全体を銀雪が埋め尽くす。
ここだ。二丁の銃を構え、地面へ発砲。雪と土砂が跳ね上がり、白い紗幕が立ち昇った。フルムハルグはその中へ滑り込み、四枚の滑空翼を大きく開く。冷えた風が翼面に噛みつき、細身の躯体を軋ませた。
「食い破ってやる……ッッ!」
叫びは、半分だけ強がりだった。喉の奥は冷えている。それでも声を出さなければ、天を見上げさせられた悔しさに潰される。
スコルは笑えないまま、重力の軛を断ち切り急上昇。膝の裏から腰まで、血が下へ引かれる。視界の端が白く滲む。それでも操縦桿は戻さない。
二基の砲台を置き去りにし、相手の真下から突き上げる。
上空から【貫滅】の閃光が降った。機巧が唸り、最小限の挙動で躱す。フルムハルグの軌跡が、銃口の捕捉を嘲笑うように光線の間を抜ける。
その瞬間、ヘイズルフリングルの背から残る二基のブリクスチャルナが剥がれた。
上空で二つの花弁が左右へ散る。背後に残した二基は下方から追い上げ、新たに放たれた二基は上から射線を垂らす。
上から二基、下から二基。四つの花弁が、フルムハルグの進路を囲む。
撃つためではない。逃げ道を塞ぎ、先に砲口を置くためだ。
スコルは二丁の銃を突き出し、上から降る砲閃へ弾幕を叩き込んだ。相殺し切れなかった光が結界を掠める。結界面に熱が走り、操縦席の壁へ細い震えが返った。
置き去りにしたはずの二基が、下方で光を絞る。遠い。だが、射線だけは届く。
上から降る閃光と、下から突き上げる砲火。空の逃げ道が、上下から噛み合わされる。狙いの逸れた光線が衝突し、上昇を続けるスコルの周りで小規模な爆発が弾けた。
冬の大気に、熱の傷が走る。それでも、スコルは緩めなかった。
ヘイズルフリングルの機影がようやく大きくなる。浮揚環を背負い、流線形の装甲を纏う華奢な機体。装甲は薄く、肢体も細い。
掴めば、崩せる。花弁を切り離した今、あの機体の足は鈍る。そうでなければ、辻褄が合わない。
百メートルを切れば、銃ではない。翼と腕力の距離だ。そこまで入れば、勝負になる。その確信が、胸の奥に火を入れた。
距離が詰まるにつれ、術式の威力が上がる。二丁拳銃では、もう相殺し切れない。スコルは上から二基、下から二基が作る射線の隙間へ、フルムハルグを滑り込ませた。
高度が二千八百メートルを過ぎた辺りで、軋みとは別の不調が兆す。
最初の違和感は、滑空翼の端に出た。風の術式が一瞬だけ遅れ、翼面の震えが操縦席へ返る。
術式の損傷ではない。高度限界で乱調が生じている。けれど、致命的ではない。そう判断して、スコルはさらに操縦桿を押し込んだ。
銃撃の応酬で狭まる視界に舌打ちし、歯を食い縛る。砲閃を掻い潜り、フルムハルグは遂に高度三千へ届いた。耳の奥が詰まり、胸の内側が薄く冷える。ヘイズルフリングルまで、百メートルもない。
抜けた。そう思った。
それでもヘイズルフリングルは動かない。最初から、逃げる必要などなかったのだ。
そう気づいた瞬間、空が固まった。咄嗟に操縦桿を切る。
フルムハルグは応えようとした。風の術式もまだ生きている。だが、巨大な骨格が向きを変えるより半拍早く、見えない圧が機首を押さえ込んだ。
乱調の露呈。滑空翼の端に溜まっていた震えが、その場に機体を縫い留める。
射線が、寸分違わずこちらへ引かれている。
抜けたのではない。銃口の先へ誘い込まれた。
冷たい戦慄が脊椎を貫く。
「しまっ――」
引き金が引かれる。一閃。
緊急回避を試みたが、機体は半拍遅れた。白亜の巨体が応じるより早く、判定光がコックピットを白く塗り潰す。
<撃墜判定>
通信の声が耳に落ちる。
白く塗り潰された視界が、ゆっくり戻る。スコルは数秒遅れて、高度を落とした。
フルムハルグを安定させると、操縦桿を握ったまま、ゆっくり肩を落とす。再び天を仰いだ。
画面越しのヘイズルフリングルは、掌に収まるほどの大きさしかない。
なのに、こちらの空だけは全部押さえられていた。
三千メートル。戦場でそれは、ありふれたはずの高さだった。
「……遠いなぁ」
呟きの続きは、乾いた冬の空に呑まれて消えた。
それでも、スコルの指はまだ操縦桿から離れなかった。




