立ち込める暗雲
ラウクヴィーク基地の更衣室は、いつも薄く熱を帯びている。
地下を流れる地熱のせいか、壁際の配管からは冬でも温い湿気が滲んでいた。油と金属、乾いた布。北西部の基地にあった雪と獣脂の重さとは、少し違う。
テテュスは紅白の強化服を脱ぎ、巫女装束に着替えた。それから、白い毛むくじゃらの子機を抱え上げる。
「さて。行こうか」
「きゅう」
鳴き声を返すと、相棒は腕の中で丸くなる。白い毛が袖口に触れる。指先で抱え直すと、小さな躯体が胸元へ沈んだ。
更衣室を出ると、廊下の壁にもたれていた女性研究員、ヨルンナが顔を上げた。亜麻色の髪を後ろで束ね、研究局の作業服の袖を肘の下で留めている。彼女は社交的で、目元は常に笑っている。
寡黙で、どこか浮世離れしていたソクボルク基地の研究員とは違う。
彼女は気さくだが、好奇心に潤んだ瞳は研究者のソレ。ヨルンナはテテュスの顔より先に、腕の中の白い子機を見た。
「その子は以前、非協力的だったんだがね。これも、銀光の巫女のなせる業かな?」
「さあな」
嬉々として覗き込むヨルンナにテテュスは短く返した。
廊下を歩き出す。昼食時の基地は騒がしい。工房棟から戻る技術官、湯気の立つ配膳盆を運ぶ兵、午後の試験予定を口早に確認する観測員。天井近くの換気口から、香草油と焼いた薄パンの匂いが流れてきた。
ヨルンナは隣に並び、楽しげに肩をすくめる。
「『銀髪』は魔導師たちも一人抱えてるが、こっちに寄越してくれなくてねぇ」
「私は代用品か」
「いやいや。君は君で、大変興味深い」
向けられる視線には、つぶさに洞察しようとする熱があった。
見咎めるも、彼女は意に介さない。寧ろ、大仰に手を開く。
「ちゃんと褒めているとも。最大級の讃辞で」
気やすい声だが、言葉の奥には薄い刃がある。悪意ではない。ヨルンナはただ知りたいのだ。リョースがなぜ研究局の接続を拒み、テテュスには応じるのか。他の幼精にあまり見られない強い自我が、どこから発生したのか。
その問いに、彼女は遠慮しない。
「君が来るまでは、本当に手強かったんだよ。呼びかけても反応しない。魔力を通しても循環を閉じる。祭祀器に移しても、奥で丸くなる」
「丸くなる?」
「ただの比喩さ」
リョースの白い毛が、テテュスの腕の中で僅かに揺れた。それを無意識に抱え直す。
ヨルンナは意味ありげに口角を上げるだけで答えない。
やがて食堂の入口が近づく。扉の向こうから、豆と塩漬け肉の煮込みの匂いが濃くなる。
昼食の皿を挟んで、テテュスとヨルンナは向かい合っていた。傍らの椅子でリョースが丸まっている。更衣室から抱えてきた温もりが、袖口にまだ残っていた。
今日の皿には塩漬け肉と豆の煮込み、薄いパン、山羊乳のチーズが並んでいた。北西部ほど脂っこくない。香草の青い匂いが鼻へ抜ける。
ヨルンナはその根菜を器用にパンで掬い、楽しそうに口へ運んだ。
「西部の食事も悪くないだろう? 北西部みたいに、何でもかんでも身体を温める方向に殴ってこないし」
「食事に殴られた覚えは無いが?」
「さすが中尉。やはり、兵士となる御仁は消化器から作りが違うのかな?」
ヨルンナは不敵な笑みを浮かべたまま、豆の煮込みを混ぜる。頑強な消化器という発想を、テテュスは持ったことがない。
頷き返す言葉が見つからず、匙の柄を握り直した。
向かいの研究者は気さくな口調だった。だが、視線は柔らかくない。食指を動かしながら、テテュスの手元、呼吸、皿の減り方を順に見ている。
「で、午前の飛翔試験。どうだった?」
「管制から聞いてるんじゃないのか」
「数値だけなら紙に聞けばいい。ボクが聞きたいのは、数値に現れない部分さ」
返す言葉が、一拍遅れた。ヨルンナの眼光に、思わず匙を止める。周囲の食器の音は続いている。だが、その輪郭だけが遠のいた。
どう話したものか。顎に手を当て視線を彷徨わせている間も、彼女は沈黙しテテュスの回答を待つ。
強度に欠陥があった駆動術式は刷新され、今日の試験は成功裏に終わった。それでも試験終了後、操縦桿の返りには表れない微細な違和感が首筋に滲んだ。
「恐らく。高度二千メートルくらいなら、何の問題もないだろう……」
そこから先を口にしようとすると、腰の奥が薄く浮いた。座っているのに、足裏だけが床を失う。テテュスは無意識に目を伏せ、匙の柄へ指を押しつけた。
「なるほど。つまり、限界高度では不安が残るんだね?」
「だが、今日が初めての試験だから――」
「信じるさ」
言い切った彼女を目にして絶句。同情も功利もなく、片肘の張らない泰然とした姿に目を奪われた。
優しさを湛えた眼差しには、科学者としての確かな誇りが感じられた。
戸惑うテテュスに対し、ヨルンナは満足げに頷いてからチーズを小さく割った。
「心配しなくていい。高度限界の技術的障壁については、アテがあるからね。大船に乗った気持ちで待つと良い」
「何を企んでいる?」
「失礼だな。ちょっと都合のいい客が来るだけさ」
軽い声で、匙を振る。確信めいた語調に、テテュスは訝しむ。胸を張るヨルンナを観察しつつ、煮込みを一口だけ運んだ。香草の青い匂いが鼻に抜ける。温かいはずなのに、胃の奥にはまだ、停止の瞬間に浮いた感覚が残っていた。
ヨルンナもすぐには答えず、妙に機嫌よくチーズを千切った。
「何しろ、白馬の王子様が来てくれるからね」
「まさか――」
王子様。魔導技術に精通している高貴な存在ともなれば、一人しかいない。
匙の先が、音を立てて皿の底に触れる。気がついたら、腰を浮かせていた。その様子に傍らのリョースが身じろぎをする。
ヨルンナの目が、少しだけ楽しそうに細くなる。
「中々、いい反応をしてくれる」
「用件は?」
いつかの一幕が脳裏に浮かび、自然と言葉が鋭くなる。剣呑な面持ちをヨルンナは意に介さず、むしろ揶揄いを含む色を瞳に浮かべて煮込みを口に含む。
「表向きはダグアーラ殿下の視察さ」
性質の悪い笑みにテテュスは黙った。王子の名前を聞いた時より、視察という単語の方が胸の奥に残った。
「彼は王立魔導研究所でも、竜機兵の飛翔試験を成功させたらしい」
「成功、だと?」
ヨルンナはあっさりと言った。まるで、今日のチーズが少し塩辛いと告げるように。
「短時間の浮揚だけでなく、制御飛行まで。詳しくは知らないが、噂では限界高度での試験を成功させたんだってさ」
「本当に?」
ありえない。反射的に喉まで出かかった言葉を呑み込み、テテュスは浮かせた腰を落ち着ける。
だが、さもありなん。軍での飛翔試験の記録を基に技術を応用するなど、彼の手に掛かれば容易かろう。
アレは、それを実現させてしまえるほどの傑物だ。
「新聞で大々的に報じられてたと思うけど、ご存じない?」
「悪かったな。世情に疎い引き籠りで」
軽口のつもりが、語尾だけが硬くなった。ヨルンナの視線から逃げるように、窓の外へ目を向ける。その動きが逃避だと気づかれたことは、頬の熱で分かった。
寒空の下では、薄い雲が流れている。その向こうのどこかで、ダグアーラの機体は今も飛んでいる。
かつて少年の祈りにも似た、純心さからくる台詞が鼓膜の奥で反響した。
自分の知らない空を、先に見ている。
そう思った瞬間、胃の奥に残っていた浮遊感が、ほんの僅かに形を変えた。
恐怖ではない。まだ、名前を付けるには早いものだった。
「なるほど。殿下から参考意見を窺う、と?」
「そうだねぇ。専門家の意見は貴重だし、別系統での飛翔ノウハウはボクも興味津々さ」
心なしか、緩んだ頬が上気していた。ヨルンナは水を一口飲み、今度は声を少し落とした。
「ただ、まあ。急遽の決定という辺り、少々きな臭くはある」
「なんだと?」
テテュスの指が、匙の柄に食い込む。軍も魔導師も、幼精の兵器運用にはどこか否定的だ。
それに、年末にあった一連の事件。ケチをつける理由は事足りる。
「どう見る?」
「それは……」
皿に目を向けても、答えは出ない。
彼の視察は好機か危機か、まだ分からない。
ただ、自分の知らない空を、彼の機体はもう飛んでいる。
その事実だけが、胃の奥から消えなかった。




