再び空へ
凍星月も半ば。神霊技術開発研究局が管轄するラウクヴィーク基地。
幼精搭載式飛翔型の胸部操縦席で、テテュスは掌に返る感触を確かめていた。
視界端の計器類は正常値。ここには魔力を漲らせる自分と、淡く光る宝珠しかなかった。
力は要らない。押し込む前に、操縦桿の奥がこちらの意思を拾う。
返ってくる抵抗は深く、指の腹へ機体の奥行きが乗った。
基幹骨格である竜骨の内側を走る魔導神経線が、十メートル級の関節の一つ一つを指先へ繋いでいる。
一本の、硬い線。それが張り詰めるでもなく、ただ通っていた。
銀光が照らすコックピットの中。計器盤中央に嵌め込まれた宝珠が、淡い金色を湛えている。
宝珠に宿るリョースは喋らない。光だけが静かに脈を打つ。その間隔に乱れはない。
テテュスが息を吸い、操縦桿を右へ逃がす。宝珠の光が僅かに強まる。それだけで、機体は傾いた。
操縦席の外で、乾いた北風の流れが乱れる。視界に映る試験場の輪郭が、ごく僅かに傾いた。
高度十二メートル。地表から離れているはずなのに、足下の装甲越しに、機体が空中で踏み止まる力が伝わってくる。
薄く残った雪が、機体の真下だけ円く削られている。砂利がじりじりと外へ押され、灰色の泥が乾いた風に剥がれていく。
浮いているのではない。落下へ戻ろうとする巨体を、術式と推進器の火焔が押し返している。
魔導推進器の低い駆動音が、腹の底へ沈んだ。
音そのものよりも先に、座席の支柱が震え、腰骨へ細かな振動が届く。肩甲骨の裏まで、機体の稼働が這い上がってきた。
テテュスは目を細める。機体は右へ二度角傾いた。だが、姿勢制御術式がすぐに躯体の重心を補正する。
背部の推進器が細く絞られて、鋼の飛翼が空中で僅かに傾いた。
竜骨フレームが荷重を逃がすそのたびに、操縦桿へ反力が戻る。
リョースが応えている。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
嬉しい、という言葉にしてしまえば薄い。もっと硬く、もっと静かなものだった。
失くしたものが戻ったのではない。
自分の手の中で、もう一度、機体が動く。それだけでよかった。
<幼精核、魔力変動なし>
管制塔で観測員が読み上げた。数値に問題はない。テテュスはそれを聞きながら、操縦桿を小さく戻した。即座に応えた機体が戻る。速い。が、自然な形で違和感がない。
命じたから動いたのではない。こちらが傾きを欲した瞬間には、リョースがすでに機体へ伝えている。
魔力を流し、機体が応え、その反応を受けて次の入力を返す。
まるで、翼を得たかのようだ。ただし、その翼は空気だけでなく、地上までを動かす。
右肩装甲が戻るだけで、空気の層がひとつ剥がれた。
背部の飛翼駆動架が微細に沈み、推進器の噴炎が地上の砂を焦がす。
操縦桿を僅かに倒す。抵抗が指の腹へ返るより早く、巨体がそれに応えた。
腰骨へ伝わる低い振動と、宝珠の脈動が同じ間隔を刻んでいる。
命じて動かしている感覚ではない。テテュスとリョース、その間を一本の意思が通っていた。
口元が緩みかけて、テテュスはすぐに奥歯を噛んだ。試験中だ。今一度、自身と相棒の手綱を握り直す。
<微速前進へ移行してください>
管制塔から指示が入り、了解と返してテテュスは操縦桿を前へ倒した。
わずかな入力。エンドリフギルは、滑るように前へ出た。
巨体が動いた瞬間、地上の砂塵が後ろへ流れる。固定台の鎖が僅かに震え、観測用の細い支柱が一拍遅れて揺れた。それでも操縦席の中は静かだった。
強引に押し出される感覚はない。機体はテテュスの意思に沿って、冬空の薄い層を裂く。術式が映す画面の向こう、試験場の白と灰が予定より僅かに速く流れた。
テテュスは操縦桿を指先だけで戻す。微速前進から停止へ移る、その瞬間。背部推進器が一段強く噴いた。
腰が座席から僅かに浮き、胃の奥が遅れて持ち上がる。墜ちた日の浮遊感が、記憶より先に身体へ戻った。
操縦桿を握る指が強張り、宝珠の金色が一拍だけ揺らぐ。テテュスは息を長く吐き、指を一本ずつ緩めた。光も、ゆっくり元の脈動へ戻った。
機体はすぐに減速。前進の慣性を残した躯体を、推進器が受け止める。
停止の余波が地面へ落ち、蒸発した雪が遮幕を下ろし、地面の砂が浅く波打った。
<水平停止を確認。推進出力、なおも安定>
管制塔の声を聞きながら、テテュスは宝珠を見やる。淡い金色の光は、乱れていない。胸の奥にあった強張りが、ほんの僅かにほどけた。
失ったものが戻ったわけでも、奇跡が起きたわけでもない。
いつの間にか、操縦桿を握る指から力みが抜けていた。
気付けば、呼吸が宝珠の脈動に追いついていた。
機体を鎮めたのではない。自分の身体が、リョースの側へ戻っていた。
竜機兵の巨体が、冬空に静止している。その静けさを、身体が実感し始めていた。
操縦桿は軽い。けれど、その軽さの下には、空に足場を作るだけの圧がある。
ふと、この足場はどの高さまで続くのだろうと思った。
術式が耐え得る限界は、高度三〇〇〇メートル。
その数字を思い浮かべた瞬間、腰骨の奥に、墜ちた日の浮遊感が微かに蘇る。
にも拘らず、宝珠の光は変わらず穏やかだった。




