初日の出
盛況のうちに年越し神楽が終わり、会場の解散間際。
神殿の外で交戦があったことと、敵はすでに排除されたことが参拝客へ告げられた。
帰路の安全確認が終わるまで正門は閉ざされたものの、開門の見通しが示されると、境内の動揺は次第に収まっていった。
傷の手当てを終えたテテュスは本殿へ赴き、ヴェルシアへ戦闘の顛末と、借り受けた大太刀の毀損を報告した。
「ご苦労様でした。今日はもう休んでください」
「ですが、初日の出の参拝客が残っています。売り子の補助くらいは――」
「今のあなたが働いても、周囲へ余計な気を遣わせるだけです」
声音は穏やかだったが、反論を挟む余地はない。
「昂りが収まるまで、何もしない時間を受け入れなさい」
諭されるまま本殿を辞し、自室で裂けた巫女装束からブラウンのワンピースへ着替える。濃紺のコートを羽織り、境内へ続く扉を押し開けた。
うっすらと雪が積もる石畳を歩けば、氷雪を含んだ冷気が頬を刺した。
鼻の奥には、兵舎で染みついた薬草と血の臭いがまだ残っている。そこへ、赤豆を煮る蜜の甘さと、鉄板で焼かれる蕎麦粉の香ばしさが重なった。
境内には既に秩序が戻っていた。
参拝客は帰路の安全が確保されるのを待ちながら、屋台の前へ静かに列を作っている。境外で交戦があったことは知らされていても、その刃がどれほど近くまで迫っていたのかを知る者は少ない。
天幕の下では、巫女たちが赤豆とカボチャ団子の蜜煮を木椀へ注いでいた。柔らかく煮崩れた豆の土に似た香りへ、カボチャの青い甘さと、焦げかけた麦芽蜜の匂いが重なっている。
その向かいでは、農畜産組合の屋台が分厚い鉄板を囲んでいた。
燻製鹿肉と山羊乳のチーズを包んだ蕎麦生地が次々と焼き上げられ、脂の弾ける音とともに、燻煙と焦げたチーズの香りが流れてくる。
腹の奥が、不意に縮んだ。
戦場では黙り込んでいた空腹が、今になって存在を主張していた。
テテュスは燻製鹿肉と山羊乳チーズの蕎麦包みを一つ買い、屋台から離れた場所で齧りついた。
薄い生地が小気味よく割れ、蕎麦粉の香ばしさに、鹿肉の塩気とチーズの酸味が重なる。熱い脂が舌へ触れ、思わず顔をしかめた。
「……熱い」
それでも、手は止まらなかった。
二口目を呑み込むと、温かさが空の胃へ落ちていく。冷えていた指先へ血が戻り、胸の奥に残っていた硬さが、僅かに緩んだ。
戦場では、痛みも疲労も動くために必要な情報でしかなかった。
だが今は、塩気を欲し、脂を呑み込み、次の一口を待っている。
生き延びた身体が、遅れて自分の欲求を取り戻していた。
蜜煮の椀を両手で抱えた子供が、母親に口元を拭われている。交戦がどれほど近かったかも知らず、団子を匙で追いかけていた。
鹿肉の燻した香りの奥で、兵舎の血臭が一瞬だけ蘇る。
それでもテテュスは咀嚼を止めず、ゆっくりと呑み込んだ。
こうして温かなものを食べられる朝は、当たり前に訪れたわけではない。
多くの者が死力を尽くし、犠牲と代償を払った先に、この時間は残された。
その事実が、食事の熱とは異なる重みとなって、腹の底へ沈んでいった。
食べ終えても、昂りは完全には抜けなかった。
今から眠る気にはなれず、テテュスは境内をあてもなく歩き始める。年越し神楽を終えた舞台では、巫女や組合員たちが祭具を片付けていた。熱狂が去った後の板張りには、赤や白の紙片だけが風に転がっている。
十年近く暮らしていながら、こうして神殿を目的もなく歩くのは初めてだった。
「来年――いや、もう今年か」
次の年越し神楽は、自分も舞台の上で踊っているのだろうか。
答えの見えない問いを抱えたまま境内へ戻ると、軍支給の濃紺のコートを着た森人の女性が、金髪を揺らしながら歩いてきた。
端正な顔立ちを目にした瞬間、胸の奥へ強烈な懐かしさが込み上げる。
「新年あけましておめでとう。テテュスちゃん♪」
「ミレイユ……」
挨拶を返そうとして、言葉が喉に引っ掛かった。
過酷な戦線へ向かったはずの幼馴染が、いつもと変わらない調子で自分の名を呼んでいる。その事実に安堵した途端、目の奥が微かに熱を持った。
素直に「生きていてよかった」と言えるほど、テテュスは器用ではない。
石畳へ視線を落としていると、ミレイユが隣へ並んだ。肩が触れそうな距離も、自然に歩調を合わせる癖も、幼い頃から変わっていない。
「そういえば。婚約、したんだったな……」
「フフ♪ 寂しい?」
「フン」
否定すれば嘘になる。
覗き込んでくる笑顔から顔を背けると、身を切る零下の中に、二人の靴音だけが響いた。
寂しくないはずがない。
ミレイユは婚約し、これから共に生きる相手を選んだ。幼い頃から隣にいた彼女の時間は、もう自分の知らない未来へ続いている。
それを祝福したい気持ちに偽りはない。ただ、自分だけが同じ場所へ取り残されたようで、焦りがうなじの産毛を粟立たせる。冷気とは違う寒さが、指先の骨まで伝った。
彼女の幸福を眩しいと思う反面、たまらなく心細かった。
隣のミレイユは、いつもと変わらない柔和な笑みを浮かべている。声の高さも、悪戯っぽく目を細める仕草も変わらない。
だからこそ、その笑みが一度も揺らがないことに、テテュスは小さな引っ掛かりを覚えた。
戦場から戻ったばかりなのだ。疲れているに決まっている。時折覗目に映る眼差しの冷たさがその証拠だと、テテュスは胸の内に秘めた。
白い息を零して空を仰げば、ゆっくりと白み始めていた。
「ねぇ、テテュスちゃん」
「ん?」
「行きたいところがあるんだけど、いい?」
断る理由は無かった。ミレイユに連れられ、二人は本殿から離れた東側の郭壁へ向かった。
「ご苦労様です♪」
「はっ」
昇降口を守る士官へミレイユが敬礼すると、階段の通行を止められることもなかった。
敬礼を受けたミレイユは、悪びれもせず階段へ足をかける。
職権濫用。テテュスは片眉だけを上げ、何も言わずに続いた。
咎める言葉は、喉の途中で立ち消えた。今日くらいは、目をつぶってやってもいい。そう思う自分に、少しだけ驚いた。
郭壁の上へ出て視界が開けた途端、冷たい風が二人のコートを膨らませた。
東には、雪を被った鎮守の森が黒々と広がっている。
針葉樹と広葉樹の梢が幾重にも連なり、その向こうには、低い山の稜線が青く霞んでいた。太陽はまだ見えない。森と空の境目だけが淡い藤色へほどけ、梢の上に漂う薄霧が、夜の青から桃色へ変わり始めている。
「いい景色だね。これなら初日の出も拝めそうじゃない?」
「職権を使って登った甲斐はあったな」
「何のことかな?」
まったく悪びれず、ミレイユは郭壁の縁へ歩み寄った。
「北へ回る途中で、少し足止めされちゃってね」
戦闘について語ったのは、それだけだった。
目立った負傷はなく、歩調にも乱れはない。いつもと変わらない横顔を前に、テテュスはそれ以上尋ねる理由を見つけられなかった。
ミレイユはそこから続きを話そうとはしない。
けどそれは、幼精が犠牲になった戦闘の顛末を秘するテテュスも同じだった。
二人の間を通り抜けた風が沈黙を埋め、金色の髪を静かに揺らした。
東の空が藤色から淡い桃色へ変わっていく。
やがて、森の向こうに霞む稜線へ、細い黄金色が走った。
数秒と待たず、樹々の上から旭日の縁が覗く。
斜めに差し込んだ光が、梢に積もった雪を一つずつ照らし、眠っていた森を奥から金色へ染め上げた。
霜をまとった郭壁が輝き、二人の影が背後へ長く伸びていく。
西へ、西へと、影だけが先に歩き出すように。
「綺麗。なんか、幸先良さそう♪」
「ああ……」
目を潤ませたミレイユは、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
空が明るさを増し、黄金色の光が頬へ触れても、その笑みは少しも深くならなかった。
テテュスは一度だけ横顔を見て、すぐに視線を旭日へ戻した。
今は、無事に隣へ立っている。
それだけでよかった。
眩しさに目を細め、朝日を一身に浴びる。
戻らなかった命もある。
それでも参拝客と年越しの例祭は守られ、境内では新しい年の朝が始まっている。
そのことは、誇ってもよいのかもしれない。
感動に打ち震えることも、傷が癒えることもなかった。ただ、包帯を巻いた腕も、胸に残る痛みも、等しく照らされるに任せた。
「来年も、こうして一緒に見られたらいいな……」
ミレイユが、朝日へ背を向けたまま呟く。声の調子は穏やかなままだった。
それでも、その言葉には願いよりも諦めに近い響きが混じっていた。
テテュスは返事をしようとした。
けれど「来年」という言葉は、約束するには遠く、失うには近すぎた。
太陽はすでに昇っている。
それでも、その一語だけは喉の奥に留まったままだった。
唇から漏れる白い息だけが、答えの代わりに風へほどけていった。
言葉にならなかった約束は、温もりの残る指先に、静かに沈んでいく。




