厳しい上官の仮面
神殿北東部の兵舎には、薬草と血、それに濡れた軍服を乾かす炭火の臭いが満ちていた。
応急処置を終えて簡素な長椅子に腰掛けたテテュスは、包帯を巻かれた右腕を膝へ置き、周囲を見渡す。
寝台はとうに埋まり、床へ敷いた毛布の上にも負傷者が横たわっている。呻き声を噛み殺す兵士。血に濡れた包帯を抱え、足早に行き交う衛生兵。壁際では、祭服を赤黒く染めた神官が震える手で祈祷を続けていた。
開け放たれた扉から、また一台の担架が運び込まれる。
「こちらは、もう――」
短い声に、担架を担いでいた兵士たちの足が止まった。
顔まで白布を掛けられた身体が、部屋の奥へ運ばれていく。布の端から覗いた手は煤に汚れ、指先だけが不自然なほど白かった。
テテュスの喉が狭まる。
視線を逸らした先には、壁へ立て掛けられた数丁の長銃と、泥に濡れた軍靴が並んでいた。どれも持ち主が取りに戻る気配はない。認識票を数える兵士の声が低く響き、途中で何度か途切れた。
勝った。
神殿も、市街地も守られた。
だが、その事実だけでは覆い隠せないものが、兵舎の至る所に残っている。
包帯の下で傷が脈打つ。テテュスは右腕を押さえ、胸の奥に溜まった息をゆっくり吐いた。
自分はここにいる。クリスカも、ミレイユも生きていた。それでも、まだ三人の姿を見ていない。
廊下から足音が聞こえるたび、背筋が伸びる。けれど、開け放たれた扉を通るのは担架を抱えた兵士や、沈痛に顔を伏せた神官ばかりだった。
(どこに居るんだ……?)
カルシラ。レミア。ヴァネッサ。三人とも、戻って来い。
握った指が包帯へ食い込み、傷の奥に鈍い痛みが走る。その痛みを確かめるように、テテュスは出入口を見つめ続けた。
戦闘は終わった。それでも、三人の姿を自分の目で確かめるまでは、身体が終わったと認めてくれなかった。
廊下の向こうから、複数の足音が近付いて来る。その瞬間、指先が震えた。
もし戻って来なかったら。その想像が、今になって身体を殴りつけてくる。
戦闘中は考えなかったことが、終わった途端に追いついてきた。
「隊長!」
最初に扉を開けたのはカルシラだった。その顔には疲労の色が窺える。後ろから現れたレミアも血色が悪い。そして彼女が寄り添い支えているのは、右腕を吊ったヴァネッサだ。顔色は白い。息を吸うたび眉が歪む。それでも彼女は、テテュスを見つけると口元を綻ばせた。
言葉を交わさずとも分かる。少女たちも今回の鮮烈な激闘をくぐり抜けて来たのだと。立ち上がったテテュスは、心臓が締め付けられた。
「全員、戻りました」
カルシラの声は、僅かに震えていた。
どこか誇らしげに眼前に並び立つ三人。胸の奥に張りつめていたものが遅れてほどけた。肺へ冷たい空気が深く入り、包帯の下の傷が痛む。それさえ、生きている者同士で分け合える痛みに思えた。
テテュスは吐き出した息が細かく震え、次の一息をうまく継げなかった。
「…………ああ。よく、頑張ったな」
労いを声にした途端、喉が狭まった。三人へ腕を回して初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
すぐそばを、白布に覆われた担架が通り過ぎる。それでも今だけは、腕の中にある三つの体温を確かめずにはいられなかった。
良かった。本当に、戻ってきた。
それ以上は声にならず、詰まった息だけが喉を震わせる。嗚咽を漏らすことだけは防げた。
テテュスはようやく戦いが終わったのだと悟った。
「戦場で、隊長の言葉を思い出したんです。水中での稼働時間は、二十分もあるって」
しみじみと、耳元で囁くのはカルシラ。テテュスは抱き寄せた腕を緩め、三人の顔を順に見た。
「ああ。そんなことも教えたな」
「だから、水中から結界の起点を撃ち抜く事ができました」
彼女によると、潜水しての銃撃が結界破壊に役立ったという。
「ワタシも、レポートで洗い出した性能を活かす事ができました。被弾しちゃったけど……」
「アンタはよくやってたわ。アタシが、墜とされずに済んだのだって……」
儚げに苦笑するのはヴァネッサ。そんな彼女の頭を撫で回すのは隣で支えるレミア。気恥ずかしいのか、頬を赤らめてそっぽを向く。
それから、三人が口々に戦場のことを語り始める。細かい言葉は、もう頭に入らなかった。
ただ、声があること。息があること。それだけが、胸の奥を温め続けていた。
「本当に、隊長には感謝してもし切れません」
「それは違う」
頭を振り、掠れた声でそれだけは否定する。彼女たちは、意外そうな顔でテテュスを見詰めていた。
「私の教えを血肉に変えた、お前たちの努力の賜物だ」
『はい』
教えただけで、戦場を生き残れるほど甘くはない。三人が繰り返し訓練し、自分の判断として使えるまで磨いたからこそ、生還に繋がった。
久しく掛けていなかった労いの言葉を送れば、少女たちは凛と背筋を伸ばした。
初陣を経た三人を前に、自分がして来た事は無駄ではなかったのだと、確かな手応えに目を細めて頷く。ただ、確信以上に。こうして言葉を交わせることの方が嬉しかった。
「アハティアラ殿は居るか?」
どこか聞き覚えのある声が廊下から響く。
入ってきたのは、灰褐色の髪を眉の上で切り揃えた小柄な女性士官。よく見れば、中隊時代の先輩だった。
「ムルカ大尉」
「貴殿のお陰で、部下が殉職せずに済んだ」
礼を言う。折り目正しい敬礼に対し、包帯を巻いた腕が考えるより先に敬礼を返した。
「光栄です大尉。ですが、私も彼女に助けられました」
あの時、長銃が降って来なければ。仮定の話だと分かっていても、暗澹とした未来に総身が震え上がる。
「そうか。互いに命を拾った、ということか」
「はい」
互いに頷き、敬礼を解く。するとムルカは、カルシラたちに顔を向けた。
「そこの三人はよくやっている。今日の働きに関しても、胸を張っていい」
ムルカはふっと口元を緩めた。上官のそんな表情が珍しいのか、三人が揃って目を丸くする。
「だが、生還を一度きりの幸運で終わらせるな。再現できて、初めて実力だ」
三人の表情が引き締まる。
「今日はもう休め。報告は昼からでいい」
『はっ』
敬礼を返すその様子にムルカは短く頷くと、女性士官はその場を後にした。
軍服と巫女装束。改めて立場の違いを痛感するとともに、少女たちが他者と育んだ絆の存在を嬉しく思った。
「では、隊長。私たちも行きます」
カルシラの言葉に、テテュスは三人を順に見た。厳しい言葉を探したが、もう口には上らなかった。
「応援している。離れていても、お前たちなら大丈夫だ」
三人の返事が重なる。今度は、誰の声も震えていなかった。
レミアに支えられたヴァネッサを真ん中に、三人はゆっくりと廊下を歩いていく。テテュスはその背が見えなくなるまで、残った笑みを隠さなかった。
三人の靴音が廊下の向こうに消えても、今度は見送ることが怖くなかった。




