霧の竜
甘く柔らかな香りが、吐く息に混じって胸の奥へ落ちていく。一服の清涼剤のおかげで呼吸が楽だ。
伐採路の落ち葉を白く染める雪。ヒュルンドレキの脚部が地面を噛むたび、静寂が一歩ずつ砕けていく。
操縦桿を傾け、巨木が林立する森の中を滑るように疾駆。このまま北部戦線を迂回し、側面攻撃で一気に片を付けたい。神殿全周に【レイクヤルヴィルル】を展開した以上、敵の出鼻は挫けたハズだ。
ただ、ミレイユは何の打ち合わせなく飛び出した。後で少佐二人からお小言をもらうことになるのは必至。しかし、今は撃退こそ急務。
北部戦線までまだ少し時を要する。空を隠す大樹の脇を抜けた直後。左の闇が、膨らんだ。
「――っ」
考えるより先、機体を沈めていた。頭上を灼熱が薙ぎ、巨木が幹ごと爆ぜる。樹皮が弾け、散華する火の粉と炭化した木片。幹に大きく亀裂が走り絶叫、根元から傾き始めた。倒木が地面を叩き、森全体が震えた。魔力反応が三つ。木立の陰から、暗灰色の躯体が躍り出る。都市強襲型の伏兵。森閑とした空間を機巧の駆動音が埋め尽くす。
<作戦通りだ。各員、取り囲め!>
壮年と思しき野太い声。正面の一機だけが真っ直ぐ進み、それに呼応して左右の二機は回り込もうと駆け出す。さながら獲物を囲う群狼そのもの。
体格差で侮ってはならない。機巧が唸ってヒュルンドレキの脚部が沈み込む。踵が地を砕き、伐採路が鈍く軋んだ。一拍遅れて巨体が地面を蹴る。遅れて朽葉と土砂が爆ぜ上がった。前方を塞ぐ枝を粉砕しながら宙を駆け、敵三機の頭越しに東へ抜ける。轟音と共に着地。衝撃で伐採路が波打ち、踏み砕かれた根が弾け飛ぶ。その先で赤黒い光が脈打っていた。
「まさか、アレは――」
砲撃。敵の肩に懸架された火砲が咆哮し、猛る炎塊が装甲に牙を立てる。大楯が防御結界を発動し、炎と煙で視界が塗り潰される。ミレイユは顔に険を宿し、即座に明滅するアンテナを背に後退、迫り来る敵と距離を取る。
背後からの砲撃。完全に不意を突かれ、驚愕を浮かべ振り返る。鬱蒼とした森の奥には何も見えない。ただ、機巧の蠢動だけは幽かに感じた。そして、潜む陰に気を取られたせいで敵の接近を許してしまった。
砲光。地面が紅く弾け、伐採路が深く抉れた。煙幕となった土砂が視界を覆い、一瞬敵を見失う。反撃に移れない。辛うじて、手近な巨木に背中の守りを託せた。
「くっ……」
単身であることが裏目に出た。どうして、狂信者たちに伏兵が居ないと愚考したのだろうか。軍が出張ってる中での攻勢なのに。けれど、自身の浅慮を悔やんでも仕方がない。短鎗を構え、相手を牽制するのが限界。
<さて。追い詰めたぞ>
正面で対峙する一機が、短鎗を突き出して拡声魔法で語りかける。
「貴方はもしかして、軍人ですか?」
言動の端々から感じる雰囲気から、ミレイユは問いを投げた。しかし相手は答えず、配下と思しき左右の二機に号令を掛けた直後に地を蹴った。
(……そう)
恐怖より先に、奇妙な静けさが胸に落ちた。
この三機は、自分を「ゲズゴール将軍の孫」として見ていない。最新鋭機を与えられた小娘とも、思っていない。
ただの敵として、殺しに来ている。
それがどうしてか、呼吸を楽にした。操縦桿が、今日はよく手に馴染む。
敵が剣を振り下ろす刹那。ヒュルンドレキは躯体を沈め、後方に跳躍。巨木の幹を足場に、敵の頭上を飛び越える。三機の背後へ着地した拍子に伐採路が足形に陥没し、踏み付けられた根が地中で弾ける。
敵もすぐさま反転、 ミレイユは躯体を伏せ、頭上を通過した砲火をやり過ごす。その姿勢のまま地を這うように加速し、最後尾の一機へ短鎗を突き出した。
展開された結界が穂先を阻み、紫電が眩く散る。左右から挟撃の気配。深追いせずに後退し、地面と根を陥没させながら間合いを空けた。
互いに武器を構えたまま睨み合い。戦況が膠着。
静寂は鳴りを潜め、響く機巧の駆動音。戦場の空気が刃のように研ぎ澄まされていく。ここには血筋も、機体の評判も、柔和な笑顔もいらない。あるのは自分の判断だけ。当たれば生き、誤れば死ぬ。それだけの場所。
三機とも武器を構えたまま動かない。肩架された大砲も照準を合わせて沈黙を貫いている。だからこそ、ミレイユも迂闊には踏み込めない。
雪だけが静かに落ちてくる。吐いた息が操縦席の内側で白く滲み、僅かな呼吸音だけが耳に残った。
直掩機の加勢は無い。相変わらず通信は死んでいる。焦燥が燻る中で次の瞬間だけが、異様に長く感じられた。
<噂ほどではないな、ゲズゴールの孫娘>
胸の奥へ落ちていた静けさが、音もなく凍り付いた。
知っていたのだ。最初から。
ただの敵として扱われていると思ったのは、自分だけだった。




