墨色と水柱
じっとりとした汗の匂いが鼻腔を満たす。携えた長銃が、いつもより重く感じられた。
繊月は既に姿を隠し、視界には雪がちらついていた。二人を焚きつけて勢いよく飛び出したはいいが、カルシラは思わず顔を顰める。
降雪の影響で視界が悪い。百メートル先も怪しい。眼下の霧は神殿を覆ったまま。ミレイユの展開した結界はまだ健在だ。今も各員が、それぞれの戦場で死力を尽くしている。
吐く息だけが兜の内側で反響し、やけに大きく聞こえた。
通信を試みても、返ってくるのは砂嵐ばかり。念話は敵のせいで完全に遮断されている。
<各部隊、応答しろ>
先陣を切るコトコヴァ少佐の天津風が拡声魔法で呼びかける。点呼だけが、雪混じりの夜へ吸い込まれていった。
周囲に敵影はない。警戒網がないのは明らかに不自然。胸騒ぎが喉を詰まらせる。
敵の飛翔鎧は闇に溶け込む墨色だ。雪と夜を背負われれば、本当にそこにいるのかすら怪しくなる。
その時だった。前方に、異様な魔力反応を検知する。
「あれが――」
<結界の起点とみて間違いなさそうだな>
視界の先にある湖面には、不気味に光る赤黒い点が明滅していた。まるで誘蛾灯。背筋を冷たいものが這った。
カルシラが目を凝らしたその瞬間。側面から赤い光条が迸った。
一つ。二つ。三つ――――否。雪に霞む夜を、火線が幾筋も裂いていく。
<――散開ッ!>
「ッ――」
爆炎が闇夜に咲き乱れた。反射的に高度を落とす。頭上を灼熱が掠め、衝撃波が飛翔鎧を殴り叩いた。
何が起きた。敵は何処に。見えない。
いや違う。見る暇がない。
<被弾した!>
<第二小隊、応答しろっ!>
<クソ、どこから撃って――>
念話が悲鳴に変わる。胸の奥が強張った。訓練では聞いたことのない声だった。
魔物との戦いではない。敵は考え、隠れ、死角から狙ってくる。
これが、戦争――
<全員、九時方向! 南だ! 反転するな!>
コトコヴァ少佐の怒声が戦場を貫く。その一声だけで乱れた編隊が息を吹き返した。各小隊が陣を整え、皆が指示方向へ銃口を向ける。
隊長は、一人で戦っていなかった。
再び火砲が瞬く。轟音。灼熱が爆ぜ、至近弾で防御障壁が展開。後手に回る困惑を嘲笑うかのように、黒い影がカルシラの頭上を掠める。皮膚が粟立ち絶句した。
雪が舞う視界の端で炎が落ちた。回転しながら霧へ吸い込まれていく飛翔鎧。味方だと理解するまで、一拍遅れた。肝が冷え、腹の底が凍える。
直下。爆ぜる湖面。立ち昇る水柱が吐き出す冷たい飛沫。装甲を叩く雨粒が、喉に張り付く緊張を僅かに流した。呼吸を思い出したカルシラは空を仰ぐ。混乱は水を差されて鳴りを潜め、代わりに戦場の停滞が張りつめた。
<カルシラ、レミア、ヴァネッサ。そのまま起点へ! 敵は我々が引き受ける!>
「はっ」
雨音に交じって名前を呼ばれ、弾かれたように急降下する。
次々と味方機が敵へ殺到していく。逃がすためではなく、通すため。
敵伏兵を一カ所引き寄せて拘束し、その隙に結界の起点を破壊。作戦通りだ。
戦場では、敵を倒すことが勝利じゃない。任務を果たすことこそが、勝利だった。
飛翼で虚空を叩き、漆黒の湖面すれすれを飛ぶ三機の飛翔鎧。
上空では轟炎が咲き、夜空が赤く染まる。
コトコヴァ少佐たちが敵勢を引き受けている。だから、自分たちは前だけ見れば良い。
そう理解して、赤黒い光点を目指し雪を押し退け飛翔している最中。胸の奥がざわつく。
違和感。赤黒く脈打つ結界の起点へ近付くにつれ、静けさが妙に引っかかる。
「……静かすぎる」
呟いた直後。眼前で湖面に烈火が着弾。
水柱が夜空へ噴き上がり、咄嗟に軌道を逸らして激突を回避。頭上から墨色の飛翔鎧が飛び出した。突出した白い波濤を、舐めるような飛翔。暗色の大楯を構えたまま一直線に突っ込んでくる。こちらを睨む銃口には魔力反応。
<そんな――>
<ウソでしょ>
「散開ッ!」
応射の暇はなかった。射線を外れても、敵は止まらない。
一機だけではない。敵三機もまた散開し、猟犬のように牙を剥いてカルシラたちを追い立てた。
連携どころではない。三人は一瞬で引き剥がされる。分断された。
「クソッ!」
悪態が口を衝く。胃の底が冷えた。
二人を助けに行きたい。だが、追えば自分も起点から離される。敵の狙いは最初からそこだ。
<カルシラ!>
レミアの叫びが拡声魔法で響く。振り向きかけた視界を、カルシラは無理やり前へ戻した。高度を落とし、足先を湖面に差し入れて飛沫を巻き上げた。
追撃を撒き急上昇。レミアの航跡を先読み、発砲。追い縋る敵が爆炎の餌食になった。
「レミアは起点を! ヴァネッサはアタシの援護!」
<任せて!>
<墜ちんじゃないわよ!>
拡声で呼びかける彼女たちに短く指示。同じようにヴァネッサを援護。
カルシラは飛翼で虚空を叩き、正面から迫る敵機へ真っ直ぐ突っ込んだ。他方、墨色の飛翔鎧は減速しない。
湖中央。大楯を正面に構えたまま、湖面を削るように突っ込んでくる。雪煙と飛沫が尾を引き、墨色の機影だけが異様なほど鮮明だった。
「――っ!」
圧迫感に胸が疼く。カルシラは長銃を構え、引き金を絞る。紅蓮の火線が闇夜に翔けた。
けれど敵は怯まない。展開された障壁が火炎を受け止め、大楯が残炎を切り裂く。距離は縮まるばかり。止まらない。
炎が消え、雪だけが降っている。誰も撃たない。
雪煙が視界を曇らせる。呼吸だけが兜に反響する。その静けさが、かえって耳を痛くした。
――来る。宙返りで相手の軌道から逃れた。後方で旋回し、反転を期す相手。カルシラが狙いを定めるより先に、ヴァネッサの一射が頭上に突き刺さる。直前の防御で墜落は免れた。
飛来する火砲。水柱に視界を奪われ、堪らず高度を取る。銃身下部の剣刃に魔力を込め、【光刃】を発動。それに気付いた上空の敵はすぐさま距離を大きく空けた。
ヴァネッサは僚機を執拗に追い回す敵を牽制するので手一杯。助け舟を渡されても、牽制を喰らったレミアは接近を断念。
起点を撃てなければ、近付けもしない。勝ち筋が全く見えなかった。
早鐘の鼓動が、耳に煩い。そんなカルシラを他所に、下方から接近する敵。大楯の陰から銃口がこちらを睨む。どこまでも堅実だ。
反射的に飛翔鎧を横転。交錯するように紅蓮の熱線が空を焼いた。
安堵の暇もなく、前方からもう一機が接近。心臓が跳ね、反射的に飛び退り射線を切った。寸毫の差で火線が闇を穿ち、灼熱の舌が足先の防壁を舐める。
思わず息を吞む。衝動に駆られてカルシラも応射。魔法の障壁が遮断し、爆炎を突き破った相手は無傷。銃口の閃きに緊急回避。
「くっ」
もし反応が一瞬でも遅れていれば、直撃は免れなかった。
訓練とは違う。ムルカのように連射もしなければ、ホムラのような精密射撃でもない。
敵の二機は連携し、回避を織り込んで撃って来る。逃げ道を塞ぐように、一手ずつ着実に追い詰めてくる。
戦争は、単純な腕比べじゃない。殺し方を知ってる者が勝つ。
カルシラは漸く理解した。
敵に銃を突き付けるその刹那。湖面に火柱が噴き上がる。追い回されるままに、レミアが放った【劫火】が炸裂した。
だが、黒煙が引いた後。まるで無傷の起点に愕然とする。赤黒い光点は、未だに不気味に明滅して健在だ。
防御結界。重要設備なら、あって当然の守り。直掩機に気を取られ、撃ち抜けば終わると思い込んでいた。考えてみれば、当たり前のことなのに。
<カルシラちゃん!>
「え――」
下から照りつける赤熱。高密度に圧縮された紅焔が視界を蒸発させた。
結界は焼却され、半身に切ったせいで片翼が被弾。衝撃で吹き飛ばされ、コントロールを失って湖面に真っ逆さま。
「きゃああああああっっ」
湖面を跳ねると装甲が水を叩き、鈍い衝撃が機体を震わせた。
速度を失った機体は片翼を沈め頭から着水。重力に引かれるまま、弾ける気泡と共に黒い湖へ呑み込まれていった。
水面が世界を閉ざす。音が消えた。残るのは装甲を軋ませる低い振動と、自分の荒い呼吸だけ。
指先だけが、まだ長銃を離していない。力を込めると、硬質な銃身が反応を返す。
それでも、翼と鎧は沈み続けていた。氷河湖の底へ。




